雪の上、椿の子
正月に帰ってこいという手紙が忍術学園に来たのは、三郎が4年生の秋頃だった。
絶対に、何があっても帰ってこいという旨に彼は小さく溜息を零す。
実家で何かあっていると言うのは、幾度か来た文で知っていた。
文面は普通に自分を気遣う物、しかし、そこは流石忍者の家系と言う物で、裏ではどういう事が起こっているのか完結に書いてある。
しかし今回はただ一言、それがはっきり書いてある手紙だった。
異論は認めない、という父の意思がはっきり見て取れるものだった。
正月はどうするのかと雷蔵に尋ねられて今回は実家に帰ると返事をした。
この優しい友人はもし良ければと何度か彼の実家である旅籠に来ることも誘ってくれている。
しかし、それも今回は断らなければならない。
毎回それを受けていたわけではないが、この命令を無視しては後でどういう制裁が待っているか解ったものではないのだ。
(億劫だな…)
と、あの薄暗い、ひんやりした空気しか持たない実家を思ってまた溜息が零れた。
「月山富田城攻め…?」
実家に戻って次兄から聞かされたのはそんな話だった。
鉢屋の屋敷は今、その準備に追われているのだという。
去年、いつもよりも丹念に城の構造を調べ上げ、今では大方の見取り図も鉢屋衆だけで書ける様になっているらしい。
件の旧城主−尼子経久もここにいるらしく、彼の情報と合わせて当日の手筈を今、整えているのだ。
「あぁ、父上が…。今回は私達も来るようにと言ったのはその為だ。三郎、お前も…今回は興行に加わるようにと」
「……兄上達だけで十分だと思うンですけどね」
「父上が言うんだから仕方がないだろう?我が儘を言うなよ」
そう言われて「まぁ、そうですね」と地毛である濡れ羽色の髪をそっとかき上げた。
だが、他人が今屋敷の中を彷徨いているなら素顔は部屋でも晒していられるか解らない。
と言っても、三郎自身自室でさえも素顔を晒すことは少ないせいか別段気にすることもないのだが。
次兄は「今回は女子供容赦するなってさ」と言い残して、その場を去っていく。
女子供にも容赦無用。
武士の戦いにしては珍しいと、溜息を吐いた。
自分の髪をまた結い直して、手近にある別の鳶色の直毛の鬘を被った。
こちらで雷蔵の変装をするつもりはなく、鬘は荷物の中にしまってある。
外に出て、庭を見れば寒椿が花を付けていた。
それが風に揺れて、ぽとりと花を地面に落とす。
「縁起でもない…」
と、特に何の感慨も無く呟いて三郎は立ちあがった。
そろそろ呼ばれている時間だと、彼は着替えを始めた。
鉢屋衆の正装は、忍び装束である。
柿色のそれを身に纏って、口元も全部隠すのが習わしだ。
こんな仰々しいのは、大がかりな暗殺を請け負った時、その任を請け負った者を送り出す時だけだ。
三郎が最初にこれにかり出されたのは、9歳の時、当時12歳だった長兄の初仕事の時である。
近くの国人衆の誰かを暗殺すると言うもので、命の危険があるのと跡継ぎと言うので、仰々しい水盃を交わしていた。
自分の時は、こんな物ではなくもっと簡素に父と盃を交わして出て行った。
部屋に入って、指定の席に座れば次兄が目を細めて笑みを向けてくれる。
次兄はこの家では珍しく、大らかな性格だ。
長兄や弟達はそれなりに暗い部分もあるが、彼はあまりそれを外に見せない。
出来た兄だと、一つしか違わないのにと思う。
さっと奥の扉が開いて、父ともう一人、見たことの無い男が姿を現した。
父よりも幾分か若い男は黒地に赤という派手な出で立ちで、父の後ろに着いて自分達の正面に座った。
丁度、自分の斜め前になる彼に軽く視線を送れば、それが微かに唇を動かすように見えた。
そして、父がすと目を上げる。
それに合わせて、一族は全員頭を下げるため、自分もそれに倣った。
「…此度は、各々ご苦労であった。今回、ここに呼んだのは他でもない。我らが主−尼子家の事、皆も聞き及んでおろう」
それに対して全員が沈黙で応える。
沈黙は肯定を、有言は否定をと言うのがこの合議の暗黙の了解だった。
「我ら、鉢屋の者は先の代の尼子家に仕えていた。此度、あの城を奪回するため、尼子家の当主たる経久殿に加勢する。異論は…ないな」
そう言って微かに父の目が鋭くなるのが解った。
異論など言っても、恐らくはここで始末されるか黙らされるかのどちらかなのだろう。
それに自分のとっては家が誰に仕えようとどうでも良いことと、三郎は口を閉ざした。
ざわめくこともない回りからもこの話をされること、こうなること自体皆知っていたようである。
その様子に隣にいた黒装束の男−経久が一歩、自分達の前ににじり出る。
「儂が、現在の尼子家当主−と言っても、今や城も兵も殆ど持たぬ身分故名ばかりと思われるかも知れぬが。此度は、儂の無理な願いを聞き届けて頂き感謝致す。月山富田城奪還の暁には、それ相応の恩賞にて報いるつもり故、儂に力をお貸し頂きたい」
そう言って頭を下げる様子に、微かに周りが気配を騒がしくする。
当然か、と三郎は吐き出したい溜息を堪えながら思った。
普段は芸人として諸国を練り歩いたり、その時々に暗殺を請け負ったりしている。
それに対して報酬を貰うことはあれど、こんな風に恭しく扱われることなどないのだから。
成功するのは当然、失敗しても何も思われない、駒が一つ消えたと思われるだけだ。
(人の心を掴むのが上手いのか、この人は)
と、経久が頭を上げるのを薄めに見つめていた。
正月まではあっという間に時間が経った。
それまではずっと楽器の練習ばかりさせられていて、久しぶりに吹く笙を少しばかり憎らしく思うくらいに父に扱かれてしまった。
楽器は何でも出来るようにと、幼い頃からたたき込まれていたが、久しぶりに弾くと勝手も分からないと言うのに。
それでも返事は「はい」しか言ってはいけないせいか、ここ数日で一番楽器を弾いていた頃と同じくらいにはこなせるようになっていた。
長兄と父は舞手な為、それに合うように吹かなければならない。
(文句をいう位なら、私に舞わせれば余程マシじゃないか…)
と思ってしまうが、それは言えないことだ。
元より、楽器の方が舞いよりも余程手練れの方が良いだろうに。
そうしない辺り、父は意地が悪いと思ってしまう。
次兄は笑いながら「まぁ、後ろに回るのは妾腹の性だろう?」と言っていたが。
問題はそこではないと思いつつも、頷くしかなかった。
城は正月の宴の為に、松明が幾つもたかれて随分暖かい。
雪が舞っているが、むしろこれくらいの方が好都合かも知れない。
天候が悪い方が、城の裏に潜んでいる尼子勢にとっても気配を殺せて丁度良いだろう。
そんな事を考えながら、宴の為に準備を始めた。
設えられた舞台の決まった席に座って、笙を口にする。
竹のひんやりとした感触、最近では慣れてしまったそれに息を吹き込んで柔らかな楽を一斉に奏で始めた。
目の前で舞いを踊る長兄と父は流石というべきか、卒がない。
見事な舞いを演じている。
それでも何処か、おざなりな感じがあるのはそれを見ているのが不本意のままに仕えている相手だからだろう。
その機微にさえ気付かずに彼等は上機嫌に酒をあおっていた。
(暢気なものだ…)
と、これからの顛末を思って、彼等を哀れにすら思う。
城塞と名高い月山富田城だが、中に入れば崩すのは容易い。
外からの攻撃には確かに強いかも知れないが、内側から何か起これば逃げるのには不得手だと言うことだ。
父の舞いが終わって、拍手が起こる。
見事だと繰り返す今の城主塩治は上機嫌にまた酒をあおった。
(後少し、裏手から声が聞こえるまで…)
そう、時を計りながら耳を澄ました。
そんな中、その場の空気を壊すように、男が一人裏手から姿を現した。
「お館様!一大事に御座います!」
「何事か、今宴の最中だと言うのにっ」
「申し上げます、今裏手より、尼子の者がっ」
「何だと!」
そんな会話を耳にすれば、父がすと持っていた白梅の枝を舞台の床に落とした。
それを合図に、全員が腰を上げる。
「な、何だ、お前達までっ」
と狼狽した様子で、家臣の一人が声を上げる。
「塩治の治世もこれまで。我ら、尼子にお味方致す」
「まさかっ!」
一斉に家臣達が立ちあがるのを合図に、全員が来ていた衣装を脱いだ。
下には柿色の忍び装束。
そして、苦無と忍び刀…様々な忍具を仕込んでいたのだ。
「我が主は尼子経久殿、ただ一人…」
ゆけ、と父の唇が紡ぐ。
それが、今宵の宴の本当の始まりだった。
阿鼻叫喚などは最初だけだった。
暫くすれば、殆ど声を出す者も居なくなる。
それでも時折強烈な血の臭いと、断末魔が響く、それだけだった。
息を潜めて、弱った獲物を屠るのは赤子の手を捻るより容易い。
赤黒く染まった忍び装束と錆びて刃がかけ始めた苦無という姿で三郎は討ち取った人間の首を持って、舞台の方へといったん戻る。
宴も既に終盤らしく、数人はそこで首を並べていた。
ずらりと並んだ、老若男女と問わない生首を河原に晒す算段をしている。
それでも並べられずに、殆どは山のように摘まれているだけだったが。
自分の持っている首を手渡して、苦無も供に捨てた。
新しく鋭いそれを持って、息を吐くと次兄が同じように首を数個持って戻ってくる。
「兄上…」
「三郎、無事だったか」
と、からからと笑いながら彼は首を係の者に手渡している。
異様な光景であるのは解るが、数度繰り返していれば慣れてくるものだ。
「大方片づいたらしい。塩治も妻子を殺して、自害したから首を持って来ると兄上が言っていたよ」
「勝ち鬨は上げないんですね…」
そう言うと次兄は「…上げたいのか、お前」と笑って返してきた。
まさか、と首を傾げれば頷きで返される。
真っ赤に染まった城を見上げれば、夜明けも間近と空が白んでいた。
「……お前、是が終わったら直ぐに学園の方に帰るのか?」
「そりゃぁ…」
そう言って頷くと、次兄は目を細めてそれから血塗れの手で、三郎の頭をわしわしと撫でてきた。
「そうか。なら、気を付けて帰れよ。暇が有れば、文でも寄こせ」
そう言って次兄はにかっと明るい笑みを見せた。
「帰ってこいとは、言わないんですね…」
「だって、お前嫌いだろう?家は…」
そう言われて返事に困ってしまった。
次兄に隠していたわけではないが、こんなにはっきり言われれば頷くことも難しい。
それを知ってか、彼はすと手を頭から退けた。
「…嫌な所に無理に居ることはない。特にお前は…外の方が似合っている。私や兄上にそれは叶わないから…お前だけでも」
な、と囁かれた矢羽根に三郎は「…はい」と短く返事をするだけだった。
屋敷の奥から足音がして一斉に皆が顔を上げる。
「塩治、討ち取ったり!」
それがこの夜の終わりだった。
絶対に、何があっても帰ってこいという旨に彼は小さく溜息を零す。
実家で何かあっていると言うのは、幾度か来た文で知っていた。
文面は普通に自分を気遣う物、しかし、そこは流石忍者の家系と言う物で、裏ではどういう事が起こっているのか完結に書いてある。
しかし今回はただ一言、それがはっきり書いてある手紙だった。
異論は認めない、という父の意思がはっきり見て取れるものだった。
正月はどうするのかと雷蔵に尋ねられて今回は実家に帰ると返事をした。
この優しい友人はもし良ければと何度か彼の実家である旅籠に来ることも誘ってくれている。
しかし、それも今回は断らなければならない。
毎回それを受けていたわけではないが、この命令を無視しては後でどういう制裁が待っているか解ったものではないのだ。
(億劫だな…)
と、あの薄暗い、ひんやりした空気しか持たない実家を思ってまた溜息が零れた。
「月山富田城攻め…?」
実家に戻って次兄から聞かされたのはそんな話だった。
鉢屋の屋敷は今、その準備に追われているのだという。
去年、いつもよりも丹念に城の構造を調べ上げ、今では大方の見取り図も鉢屋衆だけで書ける様になっているらしい。
件の旧城主−尼子経久もここにいるらしく、彼の情報と合わせて当日の手筈を今、整えているのだ。
「あぁ、父上が…。今回は私達も来るようにと言ったのはその為だ。三郎、お前も…今回は興行に加わるようにと」
「……兄上達だけで十分だと思うンですけどね」
「父上が言うんだから仕方がないだろう?我が儘を言うなよ」
そう言われて「まぁ、そうですね」と地毛である濡れ羽色の髪をそっとかき上げた。
だが、他人が今屋敷の中を彷徨いているなら素顔は部屋でも晒していられるか解らない。
と言っても、三郎自身自室でさえも素顔を晒すことは少ないせいか別段気にすることもないのだが。
次兄は「今回は女子供容赦するなってさ」と言い残して、その場を去っていく。
女子供にも容赦無用。
武士の戦いにしては珍しいと、溜息を吐いた。
自分の髪をまた結い直して、手近にある別の鳶色の直毛の鬘を被った。
こちらで雷蔵の変装をするつもりはなく、鬘は荷物の中にしまってある。
外に出て、庭を見れば寒椿が花を付けていた。
それが風に揺れて、ぽとりと花を地面に落とす。
「縁起でもない…」
と、特に何の感慨も無く呟いて三郎は立ちあがった。
そろそろ呼ばれている時間だと、彼は着替えを始めた。
鉢屋衆の正装は、忍び装束である。
柿色のそれを身に纏って、口元も全部隠すのが習わしだ。
こんな仰々しいのは、大がかりな暗殺を請け負った時、その任を請け負った者を送り出す時だけだ。
三郎が最初にこれにかり出されたのは、9歳の時、当時12歳だった長兄の初仕事の時である。
近くの国人衆の誰かを暗殺すると言うもので、命の危険があるのと跡継ぎと言うので、仰々しい水盃を交わしていた。
自分の時は、こんな物ではなくもっと簡素に父と盃を交わして出て行った。
部屋に入って、指定の席に座れば次兄が目を細めて笑みを向けてくれる。
次兄はこの家では珍しく、大らかな性格だ。
長兄や弟達はそれなりに暗い部分もあるが、彼はあまりそれを外に見せない。
出来た兄だと、一つしか違わないのにと思う。
さっと奥の扉が開いて、父ともう一人、見たことの無い男が姿を現した。
父よりも幾分か若い男は黒地に赤という派手な出で立ちで、父の後ろに着いて自分達の正面に座った。
丁度、自分の斜め前になる彼に軽く視線を送れば、それが微かに唇を動かすように見えた。
そして、父がすと目を上げる。
それに合わせて、一族は全員頭を下げるため、自分もそれに倣った。
「…此度は、各々ご苦労であった。今回、ここに呼んだのは他でもない。我らが主−尼子家の事、皆も聞き及んでおろう」
それに対して全員が沈黙で応える。
沈黙は肯定を、有言は否定をと言うのがこの合議の暗黙の了解だった。
「我ら、鉢屋の者は先の代の尼子家に仕えていた。此度、あの城を奪回するため、尼子家の当主たる経久殿に加勢する。異論は…ないな」
そう言って微かに父の目が鋭くなるのが解った。
異論など言っても、恐らくはここで始末されるか黙らされるかのどちらかなのだろう。
それに自分のとっては家が誰に仕えようとどうでも良いことと、三郎は口を閉ざした。
ざわめくこともない回りからもこの話をされること、こうなること自体皆知っていたようである。
その様子に隣にいた黒装束の男−経久が一歩、自分達の前ににじり出る。
「儂が、現在の尼子家当主−と言っても、今や城も兵も殆ど持たぬ身分故名ばかりと思われるかも知れぬが。此度は、儂の無理な願いを聞き届けて頂き感謝致す。月山富田城奪還の暁には、それ相応の恩賞にて報いるつもり故、儂に力をお貸し頂きたい」
そう言って頭を下げる様子に、微かに周りが気配を騒がしくする。
当然か、と三郎は吐き出したい溜息を堪えながら思った。
普段は芸人として諸国を練り歩いたり、その時々に暗殺を請け負ったりしている。
それに対して報酬を貰うことはあれど、こんな風に恭しく扱われることなどないのだから。
成功するのは当然、失敗しても何も思われない、駒が一つ消えたと思われるだけだ。
(人の心を掴むのが上手いのか、この人は)
と、経久が頭を上げるのを薄めに見つめていた。
正月まではあっという間に時間が経った。
それまではずっと楽器の練習ばかりさせられていて、久しぶりに吹く笙を少しばかり憎らしく思うくらいに父に扱かれてしまった。
楽器は何でも出来るようにと、幼い頃からたたき込まれていたが、久しぶりに弾くと勝手も分からないと言うのに。
それでも返事は「はい」しか言ってはいけないせいか、ここ数日で一番楽器を弾いていた頃と同じくらいにはこなせるようになっていた。
長兄と父は舞手な為、それに合うように吹かなければならない。
(文句をいう位なら、私に舞わせれば余程マシじゃないか…)
と思ってしまうが、それは言えないことだ。
元より、楽器の方が舞いよりも余程手練れの方が良いだろうに。
そうしない辺り、父は意地が悪いと思ってしまう。
次兄は笑いながら「まぁ、後ろに回るのは妾腹の性だろう?」と言っていたが。
問題はそこではないと思いつつも、頷くしかなかった。
城は正月の宴の為に、松明が幾つもたかれて随分暖かい。
雪が舞っているが、むしろこれくらいの方が好都合かも知れない。
天候が悪い方が、城の裏に潜んでいる尼子勢にとっても気配を殺せて丁度良いだろう。
そんな事を考えながら、宴の為に準備を始めた。
設えられた舞台の決まった席に座って、笙を口にする。
竹のひんやりとした感触、最近では慣れてしまったそれに息を吹き込んで柔らかな楽を一斉に奏で始めた。
目の前で舞いを踊る長兄と父は流石というべきか、卒がない。
見事な舞いを演じている。
それでも何処か、おざなりな感じがあるのはそれを見ているのが不本意のままに仕えている相手だからだろう。
その機微にさえ気付かずに彼等は上機嫌に酒をあおっていた。
(暢気なものだ…)
と、これからの顛末を思って、彼等を哀れにすら思う。
城塞と名高い月山富田城だが、中に入れば崩すのは容易い。
外からの攻撃には確かに強いかも知れないが、内側から何か起これば逃げるのには不得手だと言うことだ。
父の舞いが終わって、拍手が起こる。
見事だと繰り返す今の城主塩治は上機嫌にまた酒をあおった。
(後少し、裏手から声が聞こえるまで…)
そう、時を計りながら耳を澄ました。
そんな中、その場の空気を壊すように、男が一人裏手から姿を現した。
「お館様!一大事に御座います!」
「何事か、今宴の最中だと言うのにっ」
「申し上げます、今裏手より、尼子の者がっ」
「何だと!」
そんな会話を耳にすれば、父がすと持っていた白梅の枝を舞台の床に落とした。
それを合図に、全員が腰を上げる。
「な、何だ、お前達までっ」
と狼狽した様子で、家臣の一人が声を上げる。
「塩治の治世もこれまで。我ら、尼子にお味方致す」
「まさかっ!」
一斉に家臣達が立ちあがるのを合図に、全員が来ていた衣装を脱いだ。
下には柿色の忍び装束。
そして、苦無と忍び刀…様々な忍具を仕込んでいたのだ。
「我が主は尼子経久殿、ただ一人…」
ゆけ、と父の唇が紡ぐ。
それが、今宵の宴の本当の始まりだった。
阿鼻叫喚などは最初だけだった。
暫くすれば、殆ど声を出す者も居なくなる。
それでも時折強烈な血の臭いと、断末魔が響く、それだけだった。
息を潜めて、弱った獲物を屠るのは赤子の手を捻るより容易い。
赤黒く染まった忍び装束と錆びて刃がかけ始めた苦無という姿で三郎は討ち取った人間の首を持って、舞台の方へといったん戻る。
宴も既に終盤らしく、数人はそこで首を並べていた。
ずらりと並んだ、老若男女と問わない生首を河原に晒す算段をしている。
それでも並べられずに、殆どは山のように摘まれているだけだったが。
自分の持っている首を手渡して、苦無も供に捨てた。
新しく鋭いそれを持って、息を吐くと次兄が同じように首を数個持って戻ってくる。
「兄上…」
「三郎、無事だったか」
と、からからと笑いながら彼は首を係の者に手渡している。
異様な光景であるのは解るが、数度繰り返していれば慣れてくるものだ。
「大方片づいたらしい。塩治も妻子を殺して、自害したから首を持って来ると兄上が言っていたよ」
「勝ち鬨は上げないんですね…」
そう言うと次兄は「…上げたいのか、お前」と笑って返してきた。
まさか、と首を傾げれば頷きで返される。
真っ赤に染まった城を見上げれば、夜明けも間近と空が白んでいた。
「……お前、是が終わったら直ぐに学園の方に帰るのか?」
「そりゃぁ…」
そう言って頷くと、次兄は目を細めてそれから血塗れの手で、三郎の頭をわしわしと撫でてきた。
「そうか。なら、気を付けて帰れよ。暇が有れば、文でも寄こせ」
そう言って次兄はにかっと明るい笑みを見せた。
「帰ってこいとは、言わないんですね…」
「だって、お前嫌いだろう?家は…」
そう言われて返事に困ってしまった。
次兄に隠していたわけではないが、こんなにはっきり言われれば頷くことも難しい。
それを知ってか、彼はすと手を頭から退けた。
「…嫌な所に無理に居ることはない。特にお前は…外の方が似合っている。私や兄上にそれは叶わないから…お前だけでも」
な、と囁かれた矢羽根に三郎は「…はい」と短く返事をするだけだった。
屋敷の奥から足音がして一斉に皆が顔を上げる。
「塩治、討ち取ったり!」
それがこの夜の終わりだった。
後書き
思いの外長くなったので、切ります。この次は経久様視点ってことで。