×××コンプレックス!
あの子について。
久々知兵助が鉢屋三郎の元に来たのは小学校に上がる直前だった。両親が家に帰って来なくなった日、彼らの友人だと言う三郎の両親が、揉める親戚に堪忍袋の緒を切れさせて無理矢理連れてきたのだという。あっという間の出来事に兵助は未だにどうしてそうなったのか、はっきりとは理解していない。
ただ、あの春の日、連れてこられた家の窓から覗いていた、あの姿だけは強烈に脳内に焼き付いて離れない。身を乗り出して、背伸びをするたった一人に目を奪われてしまったからだ。子供ながらに一目ぼれと言う感情を覚えてしまって、それ以降その感情は強くなるばかりで、高校生になった今でも強烈に思い出せる。
そして今、その想いを抱いている相手は自分の父親代わりとして一つ屋根の下で暮らしている。朝、同じ時間に家を出て、帰ってくる前に夕飯を作って…、新婚みたいだと兵助が少しだけ楽しくなったのは中学に上がった頃だった。
引き取られた当初、無理矢理に押しつけられる形になった兵助に三郎は嫌悪を隠そうともしなかった。何で、大学生になるのにこんな荷物を背負わなければいけないんだと言いたげな目で見られたが、兵助はめげなかった。彼に好かれたいと言う想いは大きくなるばかりで、どうにかして良い子にならなければと思っていたからだ。
今日も今日とて、三郎はまだ夢の中だった。こうして、三郎が自分に起こされるのを許容するようになったのはいつだったろうかと兵助はカレンダーを見ながら思った。既に4月も終わり、5月になろうとしている。自分も大分学校に慣れて、友達も増えた。部活でもしないかと誘われているのだが、どうにも踏ん切りがつかない。と言うのも、この生活能力に乏しい父親がいるからなのだが。
「…いい加減、起きないと三郎が遅刻だな」
会社と学校では始まる時間が違うとはいえ、通勤時間と言うものがある。三郎は車で通っているが、その道が意外と込むのだそうだ。三郎は電車やバスで間に合うならそっちに切り替えようかと悩んだほどだが、そうなると起きる時間をもっと早くしないといけないらしかった。睡眠時間の確保や事故の危険性を考えた場合、三郎は車での通勤を選んだ。寝起きの悪い三郎は夜早く寝ることで睡眠時間を得ることを選んだらしい。と言っても寝汚いのは変わらない。兵助は何時も通り、三郎の部屋に彼を起こしに向かった。
「顔、赤くないか?」
そう問われて兵助はぱちりとその大きな眼を瞬かせた。珍しく早く起きてきた三郎と、朝ご飯の菓子パンを頬張っていた兵助が鉢合わせしたのだ。と言っても、兵助は朝から余り食欲がなくて、だが、学校の先生から朝ご飯はきちんと食べることと言うのを実践している真っ最中だったのだ。
どうやら、三郎が朝を抜いている事が学校にばれてしまったらしく、連絡帳に「朝はきちんと食べさせてください」と書かれて、兵助が申し訳なさそうにそれを三郎に差し出してきたのだ。それを見た三郎は一瞬嫌そうに眉根を寄せたが、だが直ぐに兵助に金を渡した。
「これで帰りに朝ご飯を買え」
と、そう命令されれば兵助は少しだけ戸惑って、だが、直ぐに受け取って小さくうなずいたのだ。以来、兵助は学校の帰りに自分の好きな物を買って次の日の朝に食べている。
「……赤い?私の、顔?」
そう言って彼は不思議そうに首をかしげた。きょとりとした様子に三郎は「あー…私の気のせいかもな」と、やはり冷たく、興味なさそうに返した。
「鏡、まだ見てないから解らないんだ」
「そうか」
そう言って三郎は洗面所の方へと向かった。その後ろ姿を見ながら兵助は残りのパンを無理矢理口にねじ込んだ。正直こうでもしなければ、食べきれる自信がなかったのだ。残りの一つはどうしようかと思ったが、悩んで直ぐにそうだ、と小さくつぶやいた。電話の横に置いてあるメモ帳、それを一枚破ると彼は拙い字で「あげる」と書いた。勿論、これは三郎にあててだった。
食べてくれるだろうかと、心配そうに兵助は洗面所の方を見つめるが、時計がそれを許してくれなかった。早くしないと遅刻してしまう時間になりそうで、兵助はくるりと玄関の方へと踵を返す。心なしか目の前が揺らいでいるが、学校には行かなければいけない。
(行きたくないな…)
だが、それを三郎に言いだす勇気はなかった。
『今日時間ある?』
メールの差出人を見ればそれは良く知った人物だった。不破雷蔵―三郎の親友で、そして別の意味でも友達だ。どうしたものか、と三郎はそれを見つめる。今日は兵助と外に夕飯を食べに行く約束をしているのだ。週末の雷蔵の呼び出しは大抵朝までかかる内容だった。
三郎と雷蔵は大学時代からの所謂セフレだった。付き合っているのかと聞かれれば二人は「多分」と曖昧に返すくらいには円満だ。だが、どうにも雷蔵は兵助の存在が気に食わないらしい。そしてそれは兵助も同じで、雷蔵の事を余り好いてはいなかった。喧嘩をするわけではないが、何となくお互いがお互いの事を話すときの口調でそれを感じ取ってしまったのだ。
『すまない、今日は先約がある』
それだけ返せば雷蔵からは『なら来週開けておいてね』と念押しの様な返事が来た。まぁ、そう来るよな、と三郎は予想通りすぎる返事にため息をついた。オフィスの窓から見る外の景色は春の日差しを受けて輝いている。こんな日中から、何を考えてるんだか、と三郎は己の思考にため息をついた。
学校についてから兵助は何度か咳込んでいた。朝起きた時はこんな事はなかったのに、と彼は必死に手を口にあてて息を殺した。その様子を見て隣に居たクラスの子が「大丈夫?」と声をかけてくる。それに無理矢理肯いて、兵助は給食の時間までを過ごした。近くで声がするはずなのに、それが遠のいたりしているし。目の前の文字が全部ぼやけて見える。おまけに足取りがおぼつかなくて、正直吐きそうだった。
「ねぇ、久々知君、顔真っ赤だよ?先生に言った方が良いよ?」
そう、隣の席の女の子が心配そうに此方を覗きこんできた。それでも、兵助は「良い、大丈夫だから」と食い下がった。でも、と彼女は心配そうに兵助の肩に手を置いた、その時。
ぐらり、と視界が揺らいで、そして兵助の体が教室の冷たい床の上に堕ちたのだ。
「三郎、落ち着かないね?」
「へ?」
食堂で昼を食べていた三郎にかけられた声に、三郎は間抜けな返事を返した。目の前には最近知り合った雷蔵がいる。血のつながりもないのに、三郎とそっくりだった。そんな彼にどんなシンパシーを感じたのか、ここ数週間で随分仲良くなったものだ。
「…んー…、いや、ちょっとな」
そう言って三郎は携帯を見つめた。今朝の、あの子供の様子だ。真っ赤な顔をしてパンを無理矢理口に詰め込んで、普段なら残さない朝ご飯を残していた。あげるとかかれたメモを見つめて、三郎はどうするか思案したが、もったいないだけだ、と自分に言い聞かせてそのパンを食べて大学に来ていた。
食堂で注文したパスタをがすがすとフォークでつつきながら、朝の事を思い出す。あれって、風邪じゃないか?と三郎は少しだけふらついていた子供を想った。
「気になるんでしょ?三郎の家にいる子、兵助君だっけ?」
ズバリ良い当てられてしまえば、三郎は「あー…まぁね」とだけ返した。流石に風邪かもしれない子供をほったらかした挙句言葉も掛けずに学校に行かせたなんて幾ら彼にでも言えなかった。
(それじゃあ私が人非人みたいだし…)
どう説明するべきか、と三郎が思案している時だった。三郎の携帯が震える。授業の関係で大学にいる間はマナーモードに設定している。机を震わせる携帯の番号は、確かに兵助が通っている学校の物だった。
「もしもし」
そう何処か冷たい声で電話に出れば聞こえてきたのは、少し怒ったような兵助の担任の声だった。