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※こちらは性描写の含まれる作品となっております。18歳に満たない方は閲覧を御遠慮願います。警告文を無視して閲覧した場合生じる何事も当方は責任を負いかねます。
ばさばさと三郎の膝の上に置いてあったスケッチブックが音を立ててフロアの床に落ちていた。静かなその場所にその音はやけに大きく響く。それは本当に偶然としか言いようのない事だった。何時ものように兵助は、土曜日のその時間に美術館に現れた。
あの日、兵助を始めて見て、自分の手が彼を紙の上に描き出したあの日、三郎は願ってしまった。
もう一度彼に会いたい、と。
ほんの偶然、偶々自分の居る時間に現れた青年にこんなにも目を奪われるとは三郎自身も思っていなかった。青天の霹靂、まさにそんな言葉が良く似合う邂逅だったと思う。彼がその場を去ってから、三郎は思わず自分の手元へと視線を向けていた。はっはっと短く、自分の息が切れているのが解って、彼は思わずその口を自分の手で覆ってしまっていた。今、自分は一体何をしていたのだろうかと。見ず知らずの、青年とも少年とも言い難い、明らかに自分よりも年少の相手を見て。だが確かに自分はその姿をこの紙の上に“閉じ込めたい”と思ったのだ。あの、美しい横顔を、その真摯な視線を、彼の纏う神秘の様な空気を。その全てをこの上に閉じ込められたなら。確かに自分はそう思っていた。
その思いを自覚して、三郎は自分の頬が熱くなって行くのを感じていた。口元を覆った指に感じるのは、集中の為か上気した頬の熱さであり、いっそ己の指の温度が心地よいと感じるほどのそれだった。はぁと三郎は己の手の中にその熱さを移す様に息を吐いていた。頬が熱い、目の前がくらくらする。まるで熱病に浮かされたように。そして三郎はふとあの青年が消えて行ったフロアの出入口へと視線を向けていた。
「また……」
ここに来ればいいのに。と、最後のそんな願いの様な言葉は彼の喉の奥へと飲みこまれていった。
それから三郎の頭の中は、まるで彼に埋め尽くされてしまったようだった。三郎の担当は基本的に土曜日のその時間帯だけだった。本来ここに居る筈の担当は諸事情で土曜日を定期的に休みたいという人物で、そこを穴埋めしていたのは三郎の同期である女性だったのだが、彼女はその春目出度くも寿退社が決定した。更に、そのフロアに展示されている絵画に関して少しでも齧っている、もしくは研究分野として被っているのが三郎しかいなかった為、結局その穴埋めが彼に回ってきたのだった。だが、まさか、そこであんな出会いがあるなどと三郎は夢にも思っていなかったのだ。
あの日から、あの青年を見つけた日から一週間、三郎はそのフロアを通る度に通路からあの青年が立っていた場所へとつい視線を向けてしまう様になっていた。あの美しい、ビスクドールにさえ勝るような端正な顔立ちがそこにあるのではないか、あのしっとりと雨に濡れた濡羽色の髪がそこで照明を受けているのではないか、すらりとしたあの体躯がその闇の中に浮き立っているのではないかと。だが、そんな事は起こらなかった。
一週間、三郎の瞳はその青年の幻影を映しても、決して実態を捉える事はなかった。
ばさばさばさ、と何かが音を立てて床に放り出される。幾つも白い紙が、三郎の寝室の床を覆い、彼の、今自分の隣で寝息を立てている青年を切り取ったスケッチが散らばっている。その音で三郎は目を覚ました。ざぁああ、と外からは大きな雨音がして、彼は「雨…?」と小さく呟いていた。随分と懐かしい夢を見たなと思いながら三郎はその体を起こそうとして、しかし自分の背中にぴったりとくっついている気配に、その動きを止めていた。
「兵助…、」
「ん……」
小さくその体が身じろいで、ゆっくりとその瞼が上がっていく。長い睫毛に縁どられた黒い瞳が三郎を映せば、気だるげな表情のまま彼は「朝…?」と少し粘ついた様な声で問うていた。それに三郎は「あぁ」と返事をしながら兵助を自分から引きはがそうと、ぐるりと彼の肩へと腕を回す。昨日の余韻が残っているのか、残暑のせいなのか、彼の肌がしっとりと汗ばんでいた。そんな彼の若々しい肩をぽんぽんと撫でながら、三郎は「いい加減起きるぞ」と、再び微睡へと戻ろうとしている兵助に声をかけていた。幾ら今日が日曜だと言っても何時までもこうしているわけにはいかない。兵助をこの家に上げた理由の一番は、自分の絵を完成に近づける為だと言うのに。
本当ならば昨日の夜、夕飯を食べてからと思っていた所をはぐらかされてしまった。
「俺、もう風呂行きたいな」
と、そう告げられれば三郎は断れない。と言うのも、この久々知兵助と言う青年は、その美しい見た目に反して若干強引で意志の強い所があったからだ。言い出したら聞かない、自分の願望は意地でも叶えると言う強引さを持っており、今現在三郎はそれに勝ち星を上げる事が出来ていない。結局兵助は先に風呂に入り、モデルになることも放棄してとっととベッドに行ってしまっていた。
布団の上で転寝をしている兵助を見た時は三郎も渋い顔をして文句の一つも言おうとしたのだが。
「おい、兵助!」
そう言って近づいて行った先に待っていたのは、にっこりと嬉しそうに笑う彼だった。お前なぁ、と声を荒げても目の前の青年は聞いているのかいないのか、「やっと来た」と言いながら三郎に抱きついていた。湯あがりから少しだけ冷めてしまった兵助の体温は、それでも大層心地よかった。
「待ってたんだよ」
と、甘い声で囁かれ、それから抗議する間もなく唇を奪われる。深く深く、まるで三郎の中身を暴こうとするように兵助の赤い舌が、三郎の口の中に入って来て、その形の良い唇が三郎の呼吸全てを飲みこんでいた。そうなるともう後は、兵助のペースだった。そのままベッドに押し倒されて、湯あがりの清潔な体を堪能しつくした兵助は、「疲れた」と言って寝てしまい、結局三郎は未だに兵助の姿をキャンバスに収める作業をさせては貰えなかった。
そして朝のこの状況だ。こいつは本当に此方の要望にこたえる気があるのか、と三郎は呆れかえりながらそれでもまだ少しだけ重い体を無理矢理にベッドから出していた。履いていたパジャマのズボンだけを放り投げ、彼は抽斗から新しいジーンズを取り出していた。まっさらなその布に足をつっこみ、彼は欠伸をしながらキッチンの方へと出ていく。上を着るのは、何だか勿体ない気がした。
雨の湿気が部屋の中に入り込んでくる。薄暗い曇天から差し込んでくる光は、確かに起きている筈なのに、三郎をまだ夢の中に居る様な心地にさせていた。ふ、と視線を窓際にやればそこには兵助をスケッチした画用紙が散らばっている。あぁ、これのせいか、と彼は小さく呟いて、それを全て拾い集めていた。
これは恐らくは前のスケッチブックに書いた兵助達だ。横顔、正面、後ろ頭、と様々な角度、表情の兵助がそこには収まっている。それを一枚一枚見返しながら、三郎はベッドの方へを視線を投げていた。この紙に収まっている容姿をした青年は、先ほど一度起きたことなど忘れたかのように再び寝息を立てていた。いっその事、この寝顔をスケッチしてやろうかと、三郎はそんな事を考えながらも、手にしていた画用紙をデスクの上に放り、リビングの方へを足を向けていた。
リビングの方に出て行っても、先ほどまでの気だるい空気が何となく抜けなった。時計を見れば既にその短針は10を指示し、もうすぐ昼間と呼ばれる時間になる事を告げている。そうなってしまえば、残りの時間が過ぎていくなどあっという間だ。そうなれば絵を描く時間など限られてくる。土曜日が仕事だった三郎はそのまま月曜も休みだが、兵助はそうはいかない。高校2年生だと言う彼には行かなければいけない学校と言う、子供の仕事があるのだ。自分が美術館に行かなければいけないのと同じように、それは彼にとっての義務だった。リビングのテーブルに放置していた煙草を手にすれば、三郎は一本それを口にくわえて火を着けていた。解っているのに、自分と兵助の関係を思えばこんな事をしている時間も本来ならおしい筈なのに。どうしてか今日は余り動く気になれなかった。
「雨、か……」
こんな曇天の日の方が兵助の美しさは映えるのに、と。三郎は己のやる気のなさに、自分で辟易してしまう。兵助の自堕落がうつったか、と小さく息を吐いて彼は漸くリビングからキッチンの方に移動することにした。
湯を沸かし、珈琲の豆をミルで挽きながら、三郎は自分の後ろにある寝室の扉の方を見やっていた。きぃと小さく扉が開く音がして、とん、とん、と軽やかな足音が部屋に響く。あぁ漸く起きたのか、と三郎は煙草の灰をシンクに落していた。行儀が悪い、不衛生だと解っているし、普段は決してそんな事はしない。潔癖の気がある三郎は自分のスペースを汚すことが余り好きではないのだ。だが、今日は雨と、昨夜見た夢のせいで少しだけ螺子が歪んでいるのかもしれない。こん、と小さく音を立てて三郎はもう短くなった煙草をシンクへと投げ捨てていた。じゅっと言う短い音がして、水にぬれていたシンクから細い煙が上がる。後ろからしていた足音も小さく零れた欠伸と共に消えていた。
「鉢屋さん、おはよ」
先ほどよりは明瞭な兵助の声がキッチンに響き、そこで漸く三郎は正しく後ろを振り返っていた。一体何処から出してきたのか、自分のワイシャツだけを羽織ったしどけない姿の兵助がいて、三郎は思わず深いため息を吐いてしまう。すらりとした健康的な白い足が、真っ白な自分のシャツの下から伸びていて、何とも言えない気恥ずかしい心地になってしまう。
「お前なぁ…」
と、呆れたような声を零せば、昨日と同じように兵助はそのまま真っ直ぐに三郎の背中に抱きついていた。するり、と彼の腕が三郎の腰に周り、くつくつとまだ完全に男声にはなり切れていないトーンの笑い声が三郎の背中に触れていた。
「こういうの好きじゃないの?」
と、悪戯っ子の様な声音で言われれば三郎は「止めろ」と、咎めるように兵助の手に自分のそれを重ねていた。昨日の夜と同じ、その気配を感じれば三郎は頭が痛くなる思いだった。
「朝から盛るな、兵助」
手にしていたミルを置き、三郎は兵助の手に自分のそれを重ねる。放置しておけば彼のその手は、三郎の素肌を這いまわり始めるだろう。我慢の効かない子供は、その欲望に任せて三郎を食べてしまおうとするのは目に見えていた。だが、子供と言うのは何時も此方の意表を突いてくる。三郎が重ねた筈の手は直ぐにそこから逃げ出して、そのまま彼のジーンズと肌の境目をなぞっていた。素肌にちゅっと音を立てて、兵助はその唇を寄せていた。兵助の息が三郎の肌に掛かり、更にその舌がその部分を柔らかく撫でている。
ぞわり、と三郎の肌が粟立ってきゅっと己の身を縮めてしまう。それを感じ取ったのか、三郎の背中で兵助がふっとその唇を歪めるのが解ってしまった。
「ね、鉢屋さん、良いでしょ?」
「何がだ…」
と、三郎は何とか平静を装いながら自分の背中に張り付いている青年へと今度こそ振り返っていた。その瞬間兵助との距離が一気に縮まる。彼が自分の方に更に身を寄せていたのだ。
「へいすっ…ん…ふっ…」
急にやって来た兵助の唇が三郎のそれと重なる。自分達の隣にあるコンロの上では、薬缶が既に湯気を吹きあげかけていた。ごとごととそれが音を立てている。兵助の手がコンロのスイッチに伸びて、その火を落とすのを三郎は結局見ることが出来なかった。重なった唇の間から、兵助の存外長い舌が三郎の口の中に入り込んで、自分のそれを貪っていた。下方向から差し入れられるそれを避けようとしても、三郎の背中はシンクに押し付けられてそれ以上逃げられない。はっ、と小さく息が零れ、しかしそれも直ぐに兵助の口の中に封じ込められてしまう。まだ、と言う様に兵助の手が三郎の顔に伸びて来て、ぐっと彼に捕まってしまう。
じわり、と三郎の眦に透明な粒が滲んでいた。それがつつっ、と線を描きながら三郎の頬を伝っていく。
「はっ…ん、…へ、すけ…」
「ねぇ、鉢屋さん、駄目?」
と、笑みを浮かべながら兵助は三郎に問うていた。涙に滲む三郎の黒い瞳を兵助の黒曜石が映しだす。赤く上気した三郎の頬に、うっとりとしたようにその黒曜石が、それを縁どる石膏にその面積を少しだけ狭めていた。するり、と兵助の手が三郎の腰を這う。その動きにすら三郎は反応してしまっていた。あぁ、今日はきっと私も可笑しい、と三郎はそんな事を考えてしまっていた。
こんな子供に、こんな風に翻弄されて。何時も以上におかしな、まるでまだ夢の中に居る様な気持で、三郎は再び兵助の口付を受け入れていた。
ばさばさと三郎の膝の上に置いてあったスケッチブックが音を立ててフロアの床に落ちていた。静かなその場所にその音はやけに大きく響く。それは本当に偶然としか言いようのない事だった。何時ものように兵助は、土曜日のその時間に美術館に現れた。
あの日、兵助を始めて見て、自分の手が彼を紙の上に描き出したあの日、三郎は願ってしまった。
もう一度彼に会いたい、と。
ほんの偶然、偶々自分の居る時間に現れた青年にこんなにも目を奪われるとは三郎自身も思っていなかった。青天の霹靂、まさにそんな言葉が良く似合う邂逅だったと思う。彼がその場を去ってから、三郎は思わず自分の手元へと視線を向けていた。はっはっと短く、自分の息が切れているのが解って、彼は思わずその口を自分の手で覆ってしまっていた。今、自分は一体何をしていたのだろうかと。見ず知らずの、青年とも少年とも言い難い、明らかに自分よりも年少の相手を見て。だが確かに自分はその姿をこの紙の上に“閉じ込めたい”と思ったのだ。あの、美しい横顔を、その真摯な視線を、彼の纏う神秘の様な空気を。その全てをこの上に閉じ込められたなら。確かに自分はそう思っていた。
その思いを自覚して、三郎は自分の頬が熱くなって行くのを感じていた。口元を覆った指に感じるのは、集中の為か上気した頬の熱さであり、いっそ己の指の温度が心地よいと感じるほどのそれだった。はぁと三郎は己の手の中にその熱さを移す様に息を吐いていた。頬が熱い、目の前がくらくらする。まるで熱病に浮かされたように。そして三郎はふとあの青年が消えて行ったフロアの出入口へと視線を向けていた。
「また……」
ここに来ればいいのに。と、最後のそんな願いの様な言葉は彼の喉の奥へと飲みこまれていった。
それから三郎の頭の中は、まるで彼に埋め尽くされてしまったようだった。三郎の担当は基本的に土曜日のその時間帯だけだった。本来ここに居る筈の担当は諸事情で土曜日を定期的に休みたいという人物で、そこを穴埋めしていたのは三郎の同期である女性だったのだが、彼女はその春目出度くも寿退社が決定した。更に、そのフロアに展示されている絵画に関して少しでも齧っている、もしくは研究分野として被っているのが三郎しかいなかった為、結局その穴埋めが彼に回ってきたのだった。だが、まさか、そこであんな出会いがあるなどと三郎は夢にも思っていなかったのだ。
あの日から、あの青年を見つけた日から一週間、三郎はそのフロアを通る度に通路からあの青年が立っていた場所へとつい視線を向けてしまう様になっていた。あの美しい、ビスクドールにさえ勝るような端正な顔立ちがそこにあるのではないか、あのしっとりと雨に濡れた濡羽色の髪がそこで照明を受けているのではないか、すらりとしたあの体躯がその闇の中に浮き立っているのではないかと。だが、そんな事は起こらなかった。
一週間、三郎の瞳はその青年の幻影を映しても、決して実態を捉える事はなかった。
ばさばさばさ、と何かが音を立てて床に放り出される。幾つも白い紙が、三郎の寝室の床を覆い、彼の、今自分の隣で寝息を立てている青年を切り取ったスケッチが散らばっている。その音で三郎は目を覚ました。ざぁああ、と外からは大きな雨音がして、彼は「雨…?」と小さく呟いていた。随分と懐かしい夢を見たなと思いながら三郎はその体を起こそうとして、しかし自分の背中にぴったりとくっついている気配に、その動きを止めていた。
「兵助…、」
「ん……」
小さくその体が身じろいで、ゆっくりとその瞼が上がっていく。長い睫毛に縁どられた黒い瞳が三郎を映せば、気だるげな表情のまま彼は「朝…?」と少し粘ついた様な声で問うていた。それに三郎は「あぁ」と返事をしながら兵助を自分から引きはがそうと、ぐるりと彼の肩へと腕を回す。昨日の余韻が残っているのか、残暑のせいなのか、彼の肌がしっとりと汗ばんでいた。そんな彼の若々しい肩をぽんぽんと撫でながら、三郎は「いい加減起きるぞ」と、再び微睡へと戻ろうとしている兵助に声をかけていた。幾ら今日が日曜だと言っても何時までもこうしているわけにはいかない。兵助をこの家に上げた理由の一番は、自分の絵を完成に近づける為だと言うのに。
本当ならば昨日の夜、夕飯を食べてからと思っていた所をはぐらかされてしまった。
「俺、もう風呂行きたいな」
と、そう告げられれば三郎は断れない。と言うのも、この久々知兵助と言う青年は、その美しい見た目に反して若干強引で意志の強い所があったからだ。言い出したら聞かない、自分の願望は意地でも叶えると言う強引さを持っており、今現在三郎はそれに勝ち星を上げる事が出来ていない。結局兵助は先に風呂に入り、モデルになることも放棄してとっととベッドに行ってしまっていた。
布団の上で転寝をしている兵助を見た時は三郎も渋い顔をして文句の一つも言おうとしたのだが。
「おい、兵助!」
そう言って近づいて行った先に待っていたのは、にっこりと嬉しそうに笑う彼だった。お前なぁ、と声を荒げても目の前の青年は聞いているのかいないのか、「やっと来た」と言いながら三郎に抱きついていた。湯あがりから少しだけ冷めてしまった兵助の体温は、それでも大層心地よかった。
「待ってたんだよ」
と、甘い声で囁かれ、それから抗議する間もなく唇を奪われる。深く深く、まるで三郎の中身を暴こうとするように兵助の赤い舌が、三郎の口の中に入って来て、その形の良い唇が三郎の呼吸全てを飲みこんでいた。そうなるともう後は、兵助のペースだった。そのままベッドに押し倒されて、湯あがりの清潔な体を堪能しつくした兵助は、「疲れた」と言って寝てしまい、結局三郎は未だに兵助の姿をキャンバスに収める作業をさせては貰えなかった。
そして朝のこの状況だ。こいつは本当に此方の要望にこたえる気があるのか、と三郎は呆れかえりながらそれでもまだ少しだけ重い体を無理矢理にベッドから出していた。履いていたパジャマのズボンだけを放り投げ、彼は抽斗から新しいジーンズを取り出していた。まっさらなその布に足をつっこみ、彼は欠伸をしながらキッチンの方へと出ていく。上を着るのは、何だか勿体ない気がした。
雨の湿気が部屋の中に入り込んでくる。薄暗い曇天から差し込んでくる光は、確かに起きている筈なのに、三郎をまだ夢の中に居る様な心地にさせていた。ふ、と視線を窓際にやればそこには兵助をスケッチした画用紙が散らばっている。あぁ、これのせいか、と彼は小さく呟いて、それを全て拾い集めていた。
これは恐らくは前のスケッチブックに書いた兵助達だ。横顔、正面、後ろ頭、と様々な角度、表情の兵助がそこには収まっている。それを一枚一枚見返しながら、三郎はベッドの方へを視線を投げていた。この紙に収まっている容姿をした青年は、先ほど一度起きたことなど忘れたかのように再び寝息を立てていた。いっその事、この寝顔をスケッチしてやろうかと、三郎はそんな事を考えながらも、手にしていた画用紙をデスクの上に放り、リビングの方へを足を向けていた。
リビングの方に出て行っても、先ほどまでの気だるい空気が何となく抜けなった。時計を見れば既にその短針は10を指示し、もうすぐ昼間と呼ばれる時間になる事を告げている。そうなってしまえば、残りの時間が過ぎていくなどあっという間だ。そうなれば絵を描く時間など限られてくる。土曜日が仕事だった三郎はそのまま月曜も休みだが、兵助はそうはいかない。高校2年生だと言う彼には行かなければいけない学校と言う、子供の仕事があるのだ。自分が美術館に行かなければいけないのと同じように、それは彼にとっての義務だった。リビングのテーブルに放置していた煙草を手にすれば、三郎は一本それを口にくわえて火を着けていた。解っているのに、自分と兵助の関係を思えばこんな事をしている時間も本来ならおしい筈なのに。どうしてか今日は余り動く気になれなかった。
「雨、か……」
こんな曇天の日の方が兵助の美しさは映えるのに、と。三郎は己のやる気のなさに、自分で辟易してしまう。兵助の自堕落がうつったか、と小さく息を吐いて彼は漸くリビングからキッチンの方に移動することにした。
湯を沸かし、珈琲の豆をミルで挽きながら、三郎は自分の後ろにある寝室の扉の方を見やっていた。きぃと小さく扉が開く音がして、とん、とん、と軽やかな足音が部屋に響く。あぁ漸く起きたのか、と三郎は煙草の灰をシンクに落していた。行儀が悪い、不衛生だと解っているし、普段は決してそんな事はしない。潔癖の気がある三郎は自分のスペースを汚すことが余り好きではないのだ。だが、今日は雨と、昨夜見た夢のせいで少しだけ螺子が歪んでいるのかもしれない。こん、と小さく音を立てて三郎はもう短くなった煙草をシンクへと投げ捨てていた。じゅっと言う短い音がして、水にぬれていたシンクから細い煙が上がる。後ろからしていた足音も小さく零れた欠伸と共に消えていた。
「鉢屋さん、おはよ」
先ほどよりは明瞭な兵助の声がキッチンに響き、そこで漸く三郎は正しく後ろを振り返っていた。一体何処から出してきたのか、自分のワイシャツだけを羽織ったしどけない姿の兵助がいて、三郎は思わず深いため息を吐いてしまう。すらりとした健康的な白い足が、真っ白な自分のシャツの下から伸びていて、何とも言えない気恥ずかしい心地になってしまう。
「お前なぁ…」
と、呆れたような声を零せば、昨日と同じように兵助はそのまま真っ直ぐに三郎の背中に抱きついていた。するり、と彼の腕が三郎の腰に周り、くつくつとまだ完全に男声にはなり切れていないトーンの笑い声が三郎の背中に触れていた。
「こういうの好きじゃないの?」
と、悪戯っ子の様な声音で言われれば三郎は「止めろ」と、咎めるように兵助の手に自分のそれを重ねていた。昨日の夜と同じ、その気配を感じれば三郎は頭が痛くなる思いだった。
「朝から盛るな、兵助」
手にしていたミルを置き、三郎は兵助の手に自分のそれを重ねる。放置しておけば彼のその手は、三郎の素肌を這いまわり始めるだろう。我慢の効かない子供は、その欲望に任せて三郎を食べてしまおうとするのは目に見えていた。だが、子供と言うのは何時も此方の意表を突いてくる。三郎が重ねた筈の手は直ぐにそこから逃げ出して、そのまま彼のジーンズと肌の境目をなぞっていた。素肌にちゅっと音を立てて、兵助はその唇を寄せていた。兵助の息が三郎の肌に掛かり、更にその舌がその部分を柔らかく撫でている。
ぞわり、と三郎の肌が粟立ってきゅっと己の身を縮めてしまう。それを感じ取ったのか、三郎の背中で兵助がふっとその唇を歪めるのが解ってしまった。
「ね、鉢屋さん、良いでしょ?」
「何がだ…」
と、三郎は何とか平静を装いながら自分の背中に張り付いている青年へと今度こそ振り返っていた。その瞬間兵助との距離が一気に縮まる。彼が自分の方に更に身を寄せていたのだ。
「へいすっ…ん…ふっ…」
急にやって来た兵助の唇が三郎のそれと重なる。自分達の隣にあるコンロの上では、薬缶が既に湯気を吹きあげかけていた。ごとごととそれが音を立てている。兵助の手がコンロのスイッチに伸びて、その火を落とすのを三郎は結局見ることが出来なかった。重なった唇の間から、兵助の存外長い舌が三郎の口の中に入り込んで、自分のそれを貪っていた。下方向から差し入れられるそれを避けようとしても、三郎の背中はシンクに押し付けられてそれ以上逃げられない。はっ、と小さく息が零れ、しかしそれも直ぐに兵助の口の中に封じ込められてしまう。まだ、と言う様に兵助の手が三郎の顔に伸びて来て、ぐっと彼に捕まってしまう。
じわり、と三郎の眦に透明な粒が滲んでいた。それがつつっ、と線を描きながら三郎の頬を伝っていく。
「はっ…ん、…へ、すけ…」
「ねぇ、鉢屋さん、駄目?」
と、笑みを浮かべながら兵助は三郎に問うていた。涙に滲む三郎の黒い瞳を兵助の黒曜石が映しだす。赤く上気した三郎の頬に、うっとりとしたようにその黒曜石が、それを縁どる石膏にその面積を少しだけ狭めていた。するり、と兵助の手が三郎の腰を這う。その動きにすら三郎は反応してしまっていた。あぁ、今日はきっと私も可笑しい、と三郎はそんな事を考えてしまっていた。
こんな子供に、こんな風に翻弄されて。何時も以上におかしな、まるでまだ夢の中に居る様な気持で、三郎は再び兵助の口付を受け入れていた。