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※こちらは性描写の含まれる作品となっております。18歳に満たない方は閲覧を御遠慮願います。警告文を無視して閲覧した場合生じる何事も当方は責任を負いかねます。



 初めて彼を目にした時、時間が止まっているのかと思った。

 しんと静まりかえった美術館が鉢屋三郎の職場である。ずらりと並んだ絵画達が、その絵具の色を焼かない程度の照明の下で額縁に入ったままそっと息をしている。その静かな空間の出入口の所にある椅子に三郎は座っていた。
 毎週土曜日のこの時間、三郎は必ずこのフロアの監督を自ら買って出ていた。ただそこでじっと座って、やって来る客を出迎え、何かしら疑問があるようならば解説もする、そんな仕事だった。と言っても、最近は美術館に来るような人間も昔よりは随分減ってしまった様に思う。何かしら企画をすればそれに釣られるように人の出入りも増えるが、常設の方に人が来るのは滅多と無い事だった。
 静かなそのフロアで三郎は何時も手元にあるクリップボードに鉛筆を走らせている。そして彼の視線の先には一人の青年が立っていた。雨に濡れた様な色合いの深い黒髪、その下にある稀に見る端正な顔立ち。ぱっちりとした瞳は髪と同じ色の睫毛に縁どられ、その肌は石膏の様な白さを持っていた。そんな青年をじっと、眼鏡越しに見ながら三郎は鉛筆握る手を紙の上に滑らせていた。青年の視線はじっと彼の前に展示されている絵に注がれ、なだらかな喉のラインが屋内の照明に照らされて微かに影を作っていた。その横顔を見ながら、三郎はそっと目を伏せ、その視線を紙の上に映し出された青年へと向けていた。
 彼がこの時間、この場所の監督を買って出ているのはこの青年をスケッチする為だった。初めて彼に出会ったのは、3月の雨の日、やはり同じ土曜日だった。面倒な仕事を貰ったものだと思いながらも、三郎は指定の場所に座りじっとこのフロアを見守っていた。と言っても、それ以外に特にすることはなく、これほど時間を無駄にする物も無いなと、彼は予想通りと言う様に自分の論文を進める為にクリップボードにレポート用紙を広げていた。基本的に論文や研究資料は自宅にあるパソコンで整理するのだが、こんな場所にノートパソコンを持ち込むのもと多少なりとも考えた末だった。印刷してきた資料をこっそりと広げながら、三郎はそこにシャープペンシルで様々に書きこんでいく。この部分の論調は、ここに注釈を入れて、と。
 学芸員の仕事は美術品の保護や管理もあるが、その実様々な研究も行わなければならない。特に美術館は展示物の内容の吟味や、更に企画の立案、それに伴う展示品の交渉などしなければいけない事は多い。大量に課された仕事をこなしつつ、中には三郎のように己の研究を進める者も居るのだった。家に帰ってから、自分で添削した部分を直し、これから更に書き進める部分を打ち込んで、と。三郎は頭の中で帰ってからの事を思い浮かべていた。気ままな一人暮らし、家で何をしようが特に誰かに何を言われる事もない。思う存分自分の好きな事に打ち込める、と、彼は自分の境遇をそんな風に捉えていた。
 絵画にとって丁度いい、ほんの少しだけ涼しいその場所、心地よい絵の具の香りに包まれながら、三郎はそのレポート用紙に集中していた。さらさらと書きこまれていく己の思考を文字にした文章、それが次々に生み出されていくのは何とも気持ちのいいものだ。おまけに人も入って来ず、邪魔もされない。何と良い事か、と三郎は降ってわいた様な自由な時間を、己の許される範囲で謳歌していた。おまけにここは美術館の中でもかなり奥まった場所である。ざぁざぁという雨音もここまでは届かず、ただただ静かな空気の音だけをBGMに己の意識をその紙の上に集中させることが出来る。これならば毎週やってやるのも良いかもな、と、そんなゲンキンな事を考えてしまう位だった。
 そんな時間が2時間程続いた頃だろうか、そうやって一人で下ばかり向いていれば、同じ体勢を取り続けた体は骨から軋む様な感覚に陥るものだ。自分の体の筋肉はびしびしと、ひび割れでも起こしそうな、そんな感覚を覚えて、三郎は初めてクリップボードを己の膝に置いていた。手もとのレポート用紙は5枚ほど消費され、中々捗った方だな、とそこで彼は漸くぐっと軽く背伸びをしながら、その背もたれに体を預けていた。ふ、と微かに吐き出した行きと共に、体に入っていた無駄な力も一緒に抜けていく気がする。遠目にそのフロアの全体を見渡すようにしてから、三郎は思わずその瞼を降ろしていた。こんなに誰も来ない午後も珍しい、雨のせいで人の足も鈍っているせいだろうか。だが、今の自分にとってその空間は何よりも落ちつけるような気がした。
 雨の牢獄に閉じこめられて、大好きな絵画に囲まれて、その絵具の匂いを、絵の気配を感じながら。まるで世界から切り離された様な、そんな感覚に陥ってしまうのだ。あぁ、もうこのままここで眠ってしまっても良いだろうか、と。そんな甘い誘惑が湧きあがってくる位に、眼を閉じて作り上げた薄い闇が心地よい。このままここで、ずっと…、と。そんな感傷的な気持ちになる程に、何処か浮世めいた事を思ってしまうくらいに、三郎は今この空気に酔っていた。
 だが、それでも人の体とは不思議なものだ。三郎の瞼は、まだと言う様にその蓋を完全に降ろすことを拒絶していた。じっと閉じていた瞼は、そろそろ周りを見ろと言う様に、自身の意志に反してそっと持ち上がって行く。眼鏡越しのクリアな世界でも、瞳にある潤いのせいでその焦点が合わない。ぼんやりと、水の中にいる様な視界が優しい闇を払う様に三郎の脳に入り込んでいた。ぼんやりとした視界が数度の瞬きの内に晴れていく。そこには何時もと同じ、目を閉じる前と同じ空間が広がっている、その筈だった。
「……っ」
 そう、その筈だったのに。三郎は思わず息を呑んでいた。三郎の座る椅子から少しの距離を持って、彼はその絵の前に佇んでいた。  まるで一つの絵画の様なそんな空間だと、三郎は思ってしまった。薄暗いフロアで、くっきりと彼の立っている場所だけ浮き立っている様に見える。その美しい横顔が、全身の佇まいが、まるでこの世のものではない様な、そんな浮世離れした空気を彼は纏っていた。こくり、と三郎の喉が鳴って、自分の手が勝手に動いていた。それまで文字を刻んでいた筈の三郎のシャープペンシルが、まるで誘われるように、手元にあるレポート用紙に自分の目が捉える物を描きだしていた。白い紙に黒い線が美しい曲線を描き、目の前にいる青年の表情をそこに作りだしていく。
「あっ…!」
 と、思わず三郎は声を上げていた。ふいと少年の視線が外れ、彼はその隣の絵画の前へと移動する。その動きで、三郎は思わず自分の口元を手で覆っていた。しまった、と言うのがその時の三郎の心境を表すには最も適した言葉だろう。さっきの声は聞かれてはいないだろうか、己の視線に、己の反応に、己の存在を彼に意識されてはいないだろうかと。そんな不安が一気に押し寄せる。だが、そんな三郎の不安を余所に少年は次の絵画を先ほどと同じように観賞していた。じっとその視線が絵に注がれて、じっとそれはそこにとどまっている。このフロアの絵画が終わるまで後数枚。つまりその分だけしか彼を見る事は出来ない、そしてそれはその間しか筆を動かすことが出来ないのだ。それを認識すれば三郎の手の動きが再開されるのは、最早必然だった。彼がこのフロアを出る前に、自分の視界からいなくなる前に。その姿をこの紙の上に閉じ込めてしまいたかった。
「鉢屋さん、こんにちは」
「……どうも」
 と、短い言葉が三郎と少年の間で交わされる。絵画の前に立ち止まり、そして自分とは接触持たずに彼がここを出ていくと言うのが無くなったのは、何時だったろうか。こうやって言葉を交わす回数は既に両手の指の数を越えていた。
「今日はどのくらい進んだの?」
「……お前がもうちょっとじっとしておいてくれれば、もっと早く進むんだけどな、兵助」
「なら、今日は家に行こうか?」
「…来るなと言っても来る癖に」
 そう言って三郎は小さくため息を吐いていた。
 あの日、偶然見つけた少年がこれほどまでに図々しい性格だったのかと三郎は思わず眉根を寄せたくなってしまった。目の前でふふんと何処か小馬鹿にしたような笑いを浮かべている青年の名は久々知兵助と言う。近所にある進学校に通う高校2年生で、今は三郎の絵のモデルをやっていた。
「でも俺が行くと嬉しいでしょ?」
「嬉しくねぇよ、」
 兵助の言葉を否定すれば、ふふと彼は意味深長な笑みを浮かべている。それに「なんだよ」、と眉間に皺をよせながら言葉を向ければ兵助は「いや、別に」と言いながらすっと体を離していた。ちらりと周りを伺いながら、三郎はそこに自分達以外誰も居ない事を思わず確認してしまう。さっきの会話、特に家がどうのと言うのを聞かれるは、何となくだが三郎にとっては非常にまずい事のように思えてしまう。頭の中に浮かぶのは「援助交際」だとか、「青少年保護法」だとか、そんな言葉ばかりだ。
「…鉢屋さんは嘘吐きだからさ」
「言ってろ」
 と、そう言いながら三郎は自分のスーツのポケットから、自宅の鍵を取り出していた。友人からのプレゼントである何処かの土産物のキーホルダーを付けたそれを受け取りながら、兵助は「ほらね」と更に笑っている。癪にさわる、と思いながらも三郎はそれが彼の制服のポケットに収まって行くのをただ見ているだけだ。
「夕飯何が良い?」
「豆腐以外」
「そう、なら肉でも買っておくよ。鉢屋さんはもうちょっと太った方がいいしね」
「…もう行けよ、残りは家で描かせてもらう」
 不機嫌ですと言わんばかりの口調で兵助にそう告げれば、彼は「はいはい」と言いながらすっとその場を離れて行った。
「また後でね」
 と、そんな捨て台詞を残し、彼の姿は三郎の隣に広がっていく次のフロアへ続く階段の踊り場の方に消えていく。そんな彼を横目で追い、それから三郎はふ、と小さく息を吐いていた。
「何でこうなったんだか…」
 そうどうして、こんな関係になってしまったのか。三郎自身でも非常に不可解だ。ただ自分と彼は絵のモデルと、アマチュアの絵描き、ただそれだけだった筈なのに。
 するり、と三郎は己の首筋へと手を当てていた。とくとくと流れる血液が、そこに確かに流れている。人間は心臓の音に近いものを聞くと安心するのだと言う。それはまだこの世界に出てくる前、母親の腹の中にいた時に聞いていた音と同じだからなのだと。それを自分の指を通して聞きながら、三郎はゆっくりと視線を床へを伸ばし、そしてそっと目を伏せた。
 今日、家に帰れば彼が待っている。自分の家に置きっぱなしているエプロンを身に付け、慣れた口調で「おかえり」とでも言うのだろう。彼がそうやって自分の家にいるのも、気がつけば珍しいことではなくなっている。
「……いい加減、絵を描きあげてしまわなければ、な」
 そう言いながら三郎は自分の手元にあるスケッチブックへと視線を落としていた。何枚も何枚も、その紙にはただ一人だけが描かれている。幾度も幾度も、自分の手は彼を描く為だけに動いている。でもそれは全て完成と言うにはほど遠く、何時も途中で止まっていた。
 久々知兵助の美しさは、こんな紙に描いてあるようなものではない。
 もっと儚げで、だが何処か力強く、雨に濡れたガラス玉のようにきらめているのに。
 それを全て絵筆で表したいのに、三郎にはどうしても、何度描いても納得など出来なかった。自分の家の簡素な、アトリエと呼ぶのさえ憚られる様な空間には目に映った彼の姿を閉じ込める為のキャンバスが、ずっと立ちっぱなしになっている。あれを描きあげるまで、それまでの関係だと、そう最初に持ちだしたのは自分である筈なのに。それなのに…。
 そこまで考えて三郎はそっと閉じていた瞼を上げていた。腕にしている時計を見れば、もうそれは17時を示していて、自分の勤務時間の終了まで後1時間と言う所まで来ている。後は今日の報告書を書いてしまえば終了だった。三郎は膝に乗せていたスケッチブックを音を立てて閉じていた。
「あまり待たせると後が面倒だな」
 そう、色々と面倒だ。子供と言うのは、やはり遠慮がない。だたそれだけだ、と彼は自分に言い聞かせるようにして、その場の後片付けを始めた。決して彼が言う様に、彼のいる自宅に帰るのが楽しみなのではないのだと。そう、己に言訳をしながら。

「鉢屋さん、おかえりなさい」
「…豆腐は止めろつったよな?」
 思わず三郎の声が低い物に変わる。先に家に行ってると言った兵助は本人の言に従って、三郎と自分の為に夕飯を作って自分の帰りを待っていたのだが。
「だって、タイムセールで安くなってたんだよ。それにちゃんと肉もあるだろ?」
 ほら、と言いながら彼はテーブルの隅に置いてある肉じゃがを指で示していた。小さな小鉢に盛られたそれは確かに牛肉を使ったそれだが、明らかにメインは違う。今、三郎の家の食卓に主役だと言わんばかりに鎮座しているのは、どうみてもこんがりとやけた豆腐のステーキだった。ご丁寧に今日もタレから作ったのだろう、シンクを見ればそこには茶色のタレがついたボールが垣間見えていた。それに小さく息を吐いて、三郎は水を先に貰おうと冷蔵庫の前に立った。水道からの水を直接飲むなどと言うのは余り好きでは無く、三郎は何時もミネラルウォーターを買っていた。それを取り出す為に冷蔵庫の扉を開け、中に入っている小さめのペットボトルを手にしていた。
「全く、自分で私はもっと太った方が良いと言った癖に…」
 と、思わずそんな不満を零し、三郎はペットボトルに口を付けいていた。冷たい水が口の中に入って来て、乾いていた喉を潤していく。半分ほど飲んで、それから、はぁと大きく息をつき、そして三郎は思わず「何してんだよ」と声を零していた。
「いや、やっぱりもうちょっと太っても良いよなって思って」
 そんな事を良いながら、兵助はいつの間にか三郎の背後に回り込み、その腰に抱きついていた。自分の肩口の辺りにある兵助のつむじを視界に入れた後、三郎は自分の腰に回っている彼の手を引きはがそうと、自分のそれを重ねていた。ともすれば、この青年の手はそのまま自分の服の上を這いまわりかねない。それこそ、慣れた様な手つきで、だ。それを解っているせいか、三郎はそうはさせまいと言う様にその手を捕まえたのだ。
「兵助、」
 と、三郎の口からまるで咎めるように彼の名前が零れて、兵助の方が不思議そうに三郎を見上げている。
「何…?」
「今は駄目だ」
「なら、後で?」
 そう言って兵助はにやりとその口元を歪めていた。ぐっと三郎が抑えつけていた兵助の手から、すぅっとその力が抜けていくのが解った。そう、この後で。食事をし、風呂に入ってから、その後、自分は恐らく兵助の手が自分に触れることを拒むことはないだろう。  兵助に支払っているモデル料は、実の所金銭ではなかった。三郎が彼をスケッチしているのが、彼に知られた時、兵助が三郎に要求してきたのは、三郎と過ごす時間だった。
「あんたが俺とデートしてくれたら、それで良いよ」
 そう言った兵助の表情は、まさに小悪魔と言う言葉が良く似合うそれだった。満面のとは行かないまでも、顔中に広がる勝者の様なそれに三郎は思わず顔を引きつらせたのを今でも覚えている。そしてその一回で、モデルになってくれると言うなら安い、とそう思ったのが、何よりも間違いだったのだ。
「え?一回のモデルに付き一回デートに決まってるでしょ?」
 そう言われたのは、二度目のモデルの話を彼に持っていった時だった。あっけらかんとした様子で言われたそれに、三郎も流石に面喰った。さも当然と言わんばかりの兵助は、それから段々と己の要求を広げていった。
「抱き締めさせて」
「今晩泊めてよ」
「ねぇ、キスさせて」
 そう言って彼の要求はどんどんその度合いを高くしていった。
「ねぇ、鉢屋さん、抱かせてよ」
 そう言われたのはその関係を続けて、数か月してからだった。場所はこの三郎の家で、そして何時も通り二人きりで、あの日も出会った時と同じように雨が降っていた。確かにあった筈の兵助との距離が0になり、三郎は椅子に座ったままで、だがいつの間にか彼の顔が至近距離にあった。その綺麗な黒い瞳に見つめられ、甘い声で囁かれ、降ってくる彼の唇を受け入れて。その後はもうされるがままだった。
 まるで夢の中にいる様な、不思議な時間だったと思う。子供だと、そう思っていた筈の彼は、熱に浮かされたまま、それを冷ます様に冷たい床の上で自分を抱いた。何度も重ねられる口づけと、重なり合う肌と、溶け合ってしまいそうな程の熱い繋がりと。自分は一体何をしているんだ、と言う理性の声と、それとは裏腹に上がる自分の嬌声と。あの日の自分達はやはり雨の牢屋に囚われていたのだ。誰にも知られない、二人だけの隔離された様なその空間に。
 その筈なのに、未だに三郎は兵助とのその関係をずっと続けている。
「なら、さっさと食べようよ。俺も大概腹減ってるし」
 そう言って兵助の腕が三郎の腰から離れていく。するりと抜けていく彼の体温に三郎は少しだけ、名残惜しさを感じながら「はいはい」と返事をする。食卓では兵助の作った夕飯が、まだかろうじて湯気を立てていた。

後書き

支部さんで連載してた奴。こちらにも上げます。