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※こちらの作品は性描写が含まれます。未成年の方の御閲覧は固くお断り致します。警告を無視して先に進まれました場合に生じる何事も当方は一切の責任を負いません。


 ミーンミーンと言うけたたましい蝉の声がその庭を埋め尽くしていた。茅葺屋根の日本家屋など、このご時世では珍しい建物が、住宅街の端に姿を置いていた。りん、りん、と蝉の声に混じって聞こえるのは銅製の風鈴で、その音の下に一人の男が寝そべっている。縁側で気だるげに、市松模様の白地の浴衣を着崩して、彼はひんやりとした床にべたりとその頬と腕を触れされた。これだけの熱気のせいで、通り抜ける風さえも柔らかいと言う感触を通り越し、むしろごわごわとした質感を持っている様な気さえしてしまう。庭では無造作に伸びた朝顔がその蕾に皺をよせ、古き良き時代の日本の風景を描き出していた。
「あー…暑いなぁ…」
 と、男の掠れた様な声が響いていた。
 彼はこの家の家主であり、その建物の玄関から半分程のスペースを占める古書店の店主だった。善法寺古書堂と言う簡素な看板が掲げられてはいる物の、そこの下には「本日休業」と言う小さな札が下がっている。暑いから、今日は休もう。そんな理由で家業を止めてしまう程、この男の気性は自堕落であるらしい。ずるずると伸ばされた薄茶の髪は切るのが面倒なだけなのか、それとも何か意味があるのか、その長さを背中を覆い腰を通り過ぎた辺りまで来させていた。それを肩口で緩く一つに結び、体に掛かって熱気がこもらないように床の上に置いている。
 そんな夏の庭に、きぃと一つ別の音が入って来た。庭と裏山を区切る為の背の低い囲いの一角は、出入りの為に戸になっている。それを手で押して、耳を覆い隠し方まで伸びた黒髪を一つに括った男が手にビニール袋を下げて、庭へと入ってきて、そして、彼は盛大にため息を吐いた。
 彼の視線は縁側で寝ている家主へと注がれていた。黒いタンクトップの上に半袖のワイシャツを着て、後ろ髪が尻尾の様に揺れている背中が、何の遠慮もなく其方へと向かっていく。ざり、と土を踏むサンダルの音が縁側の近くまでくれば、彼は「おい」と先程のため息と同じように呆れた様な声を出していた。
「おい、伊作、お前仕事はどうした?」
「あ、留三郎、久しぶりー」
 そんな彼、留三郎の様子など構いもせず、家主―伊作は床に寝転がったままそう返事をしていた。だらりとしどけなく寝そべったままの伊作に、留三郎は持っていたビニール袋を差し出しながら、「お前なぁ…」と焦れた様子を見せていた。がさりと伊作の目の前で白いビニール袋が揺れて、「何、これ?」と彼の眠たげな瞳が数度瞬いていた。
「差し入れだ、母さんが持っていけって」
「中身、何?」
「…冷麦」
「僕、ソーメンの方が好きなんだけど」
「うるせぇ!文句言うなよ、貰いものだぞ?!」
 そう言いながら留三郎は伊作の寝そべっている縁側に腰かけていた。僕がそっちの方が好きなの知ってる癖に、と言いながら伊作は体を起こしていた。元々だらしない性質なのか、起き上がった彼の浴衣は見事に着崩れ、その合わせ目からは日に焼けていない白い肌が、その痩せた腿の辺りまで見えていた。はーっとため息を吐きながら彼はゆっくりと留三郎の方へを視線を向けた。ぽんと置かれた冷麦の袋をくんと引いて、「お腹空いた」と彼は小さく呟いている。りん、とまた風鈴が鳴って、太陽に暖められた風が二人の間を吹き抜けていく。この風ももう暫くすればやってくる夜に、多少なりとも、その熱気を奪われていくのだろう。太陽は南から外れ、段々と西の空へと向かっていた。
「ねぇ、留さん、これ茹でてよ、もうすぐ夕飯時だしさ」
「はぁ?仮にも俺は客だろ?お前がやれよ」
「やだよ、僕がやったら火傷する、お前も知ってるだろ?」
 その言葉に留三郎はぐっと押し黙るしか出来なかった。確かに、と彼は目の前の男の言葉に頷くしかできない。
 伊作は昔から何かと不器用で、何かさせれば必ず怪我をする、そういう男だった。それは出会った頃から今も変わらない。確実に手か腕か、うっかりすれば足か、その経過が何であれ負傷するのは目に見えているのだ。
「ねぇ、良いだろ?僕、留さんの茹でた冷麦が食べたいなぁ」
「甘えた声出すな、きめぇ」
 はぁ、と呆れた様な留三郎のため息が落ちて、しかし彼はそのままサンダルを縁側の下にある縁石の上に脱ぎ落とし、縁側の床から腰を上げた。留三郎の裸足の足が、伊作の家の板張りへと上がって、その動きを追う様に伊作の顔が上がった。
「卵とハムとキュウリも着けてね」
「そう言うなら手伝え、ばか」
「皿出す位はするよ」
 そんなやり取りをしながら伊作も気だるげに立ち上がって、台所へと向かう留三郎の背中を追った。

 伊作と留三郎は小学校からの同級生だった。所謂腐れ縁のような関係で、成人し互いに職を持ってからもその付き合いは続いている。見た目も性格も正反対、と他人からは良く言われる二人ではあるが、どうにも馬が合うというか、これまで大きな喧嘩一つすることなく“友人”として関係を築いていた。元々、留三郎が世話好きと言うのもあったのだろう、何かと危なっかしい伊作の世話を焼いているだけだと称する友人もいる位だった。
 木で作られた桶に白い冷麦と冷水、そしてその上に溶けかけた氷が浮いている。その隣には白い皿の上の伊作が要望した通りの具が乗せられている。ハムとキュウリと薄焼き玉子、それを取り分けた冷麦に乗せてずるずると二人は啜っている。りんりんと昼よりもずっと風鈴の音が頻繁に鳴って、大きく開いている窓から見える空の色も橙と藍色が入り混じっていた。
「今日、戻ってきたのかい?」
「あ、あぁ、朝方な、明日には撮ってきたの現像にまわさねーと…」
「あ、それで僕の家に来たのか」
「他になんか理由あんのか?」
「ないね」
 そう言って伊作は次の冷麦を食べる為に桶の方へと箸を伸ばしていた。留三郎は今、プロの写真家をしている。そして彼の写真の現像場所は伊作の家にある。伊作の他界した父親の趣味の一つに写真があり、その名残で現像所が離れの方にあったのだ。
 高校の時、彼を家に連れてきた時にそれを見つけられ、以降留三郎はそこを使って自分の仕事を仕上げていた。その頃にはとっくに父親も母親もこの世におらず、家族は年老いた祖父だけだった伊作に、それを断る理由は何もなかった。それにその祖父は留三郎の事を甚く気に入っていて、随分可愛がっていた。下手をすれば自分よりも彼の方を優遇しているんじゃないかとさえ思える程に。正直、それを不満に思わないことも無かったが、現像所を使っていいと祖父から言われた時の留三郎の嬉しそうな顔を見るだけで、伊作はそんな不満さえも吹き飛んでしまうのだから、随分と色々な物を拗らせているのだった。
 留三郎は高校の頃からカメラを趣味にしていた。大学に入学して賞を取ってからはその道で食べていく事を決めたらしい。彼の写真は中々評価も高く、今では写真集まで出している程だった。古き良き風景、都会の中の過去、そんな煽り文句を着けられるような、他者の懐古を促す様な写真が取り沙汰されたりもしている。おまけに彼は滅多に人を撮らない。自然や風景や、人の気配の無い物を被写体に選ぶことが多かった。伊作もそれを好ましく思い、彼の写真集は全て購入していた。それを知った留三郎が一度「やろうか?」と申し出てくれたが、伊作はそれに首を横に振っていた。
「お前、これで食ってるんだろ?僕だってお前の仕事に相応の評価を上げたいじゃないか」
 そう言うと彼は「そういうもんか?」と言って首をかしげていたのだから、伊作からすれば何と無欲な事だろうと思う。もっと欲を出せばいいのに、と常日頃思っているのだが、ついぞ口にした事はなかった。
「日も暮れたし、明日にすれば?」
「誰のせいで、だよ!」
「あはっ、僕だね、ごめん」
 伊作のそんなおどけたような返事を聞けば、留三郎はまた呆れた様なため息を吐いていた。仕方がない、まるでそう言いたげな吐息に伊作は何時も心のどこかで嬉しくなってしまうのだ。このため息を吐いている内は、彼は必ず自分の我儘を聞いてくれると、伊作は何となく知っていた。幼い頃から、何時も我儘を言うとこんな風にため息を吐く癖に、必ずと言っていい程留三郎は伊作の言う事を聞いてくれる。それも幼い頃から変わらなかった。
 風鈴の音に混じって、蝉の声がしていた。あぁ、夜にも彼等は愛を歌うのか、と伊作はそんな事を考えてしまう。ちらりと彼の視線が持ち上がり、目の前で冷麦を食べている留三郎へと注がれていた。
 日に焼けてはいるが元から白い彼の肌、それが冷麦を飲みこむたびに上下していた。汗ばんだ彼の肌、麺つゆで濡れた唇、そして、汗で濡れ額に掛かる黒い髪、あぁ、と伊作は心の中で一人ごちていた。あの頃から、出会った時から変わってしまった事があるならば、きっとこの湧きあがる欲だろう。どうして僕は、と思いながら、伊作はまた口を開いていた。桶の中の冷麦はもう殆ど二人の腹の中だ。具もそれに合わせて、皿の上から姿を消している。
「ねぇ、留三郎」
「ん?」
「今日、泊って行くだろう?」
 そう言えば、微かに留三郎の黒く鋭い瞳が見開かれ、そしてそっとテーブルの上にその視線が落ちていく。あぁ、と伊作はまたそんな風に心の中で、そんな声を零していた、ほらね、やっぱりって、そう続きそうな程に。彼の反応はとても解り易かった。
「…ねぇ、泊って、行きなよ」
 その言葉にこくりと留三郎の喉が鳴る。やっぱりだ、と伊作は留三郎の表情を見ながらそう思っていた。彼の返答はきっと「解ってるよ」とその一言だ。そうだ、解ってるのだ。伊作が彼と何をしたいのかも、どうして彼がここに来たのかも。仕事、そんな物は言い訳に過ぎない。
「解ってるよ」
 伊作が予想した通りの返答が留三郎の口から零れ落ちる。からん、と氷が溶け、麦茶の入ったグラスにぶつかる音がした。

 伊作の家にはクーラーが無い。家の裏手に山があり、夜寝る分には困らぬ程の気温が下がる。自然の冷たい風が山から下りて、伊作の家に吹き込んでくるからだ。だが、しかしそれでも熱い、と思ってしまう。
 開け放った窓、その奥の畳には蚊帳が降り、今二人はその中にいた。じっとりと汗ばんで、触れあう二人の肌に互いの髪が張りついて、しかしそれでも二人には離れる気配すらなかった。
「ぁ…ぁっ…いさ、くっ…ふっ…」
「ん、何?留さん」
 蚊帳の中で二人は裸だった。寝る為に来た揃いの柄の寝間着など、とっくに腰に巻きついている布の様な状態だった。ぐちゅりと濡れた音が、二人の下半身から蚊帳の中に響く。はぁ、と熱い吐息が互いの口から零れ落ち、周りの気温が更に上がった気さえした。ぁ、あっ、と甘く甲高い声が留三郎の口から溢れるたびに、彼の中に埋まった伊作自身がずくりとその嵩を増す。
「も、もう…ぁ…あ…い、くっ…!」
「はは、今日、随分早くない?何、溜まってたの?」
「るっ…せぇっ!良いから、早くしろ、って…!」
 と、少しばかり焦れた様な留三郎の声が、その手と共に伊作に届いていた。ぐぃ、と彼の手が伊作の項に回されて、そのまま思い切り彼の方に引き寄せられて、その唇が合わさった。ちゅっとそんな音を響かせて、だが、それでも足りないと言う様に、伊作の腰にも留三郎の足が絡みついていた。
 何時からだっけ、と伊作はそんな事を考えてしまった。この関係の始まりは、恐らく今日と同じ暑い日だ。まだ制服を身に纏い、高校に行っていた、そんな時分に、場所はこんな畳に敷いた布団の上でも、蚊帳の中でもなかった。あれは、確か、と伊作は己の記憶を手繰っていた。
 あれは、そう、暑い夏の日の留三郎の部屋だった。どうしてそんな風に互いの体に触れようなどと思ったのか、理由なんて今の溶け切った頭では思い出せない。だけれど、あの時の事は鮮明に思い出せるのだ。白い留三郎の肌も、額に張り付いた黒髪も、熱い吐息を含んだ高い声も、纏わりつく様な互いの汗も、全部全部覚えている。あの時から、いや、あの時を越えても伊作と留三郎はずっと“友人”のままだ。こんな風に体を繋げた後ですら、互いにその気持ちを吐露した事はない。
 はぁ、と二人の間で留三郎の熱い息が零れる。早く、と言う様に彼の腰も揺れて、それが余計に伊作の欲を煽った。するりと留三郎の手が伊作の長い髪を撫で、それを梳くようにその長い指が通って行く。
「いさく…っ伊作っ…!」
 彼が伊作の名を呼んでいた。熱に浮かされ、焦れて、あの時よりもずっと低い、だけれど平素よりは高く甘い声で、留三郎が伊作の名を呼ぶ。暗い闇の中でも潤んだその瞳に時分の顔が映り込んでいた。黒く美しい、星屑を散りばめた夜空を思い起こさせるような、明るい黒い瞳に、自分が映り込んで、それでいっぱいになっている。
「留さん、留三郎…」
 そんな風に見ないでおくれよ、そんな風に呼ばないで、でなければ、僕は…。
 と、そんな事を考えながら、伊作は再び自分に縋りついてくる留三郎の唇を奪っていた。肌をすり合わせる様にして互いに動き、伊作も留三郎の中でその限界を近くしていた。ごりごりと留三郎の内壁を抉り、伊作の欲が彼の内側でその奥を浸食するように膨れ上がる。
「ぁっあっ、あっ…ん、ああっ!」
「んんっ!」
 びくんと互いの体が痙攣して、頭の奥で光が明滅する。強烈なハレーションと、きゅうと締めつけられる感覚。じわりと広がる温かい、体温に近い熱、それにうっとりと眼を細めて、伊作はぎゅうともう一度留三郎を抱きしめていた。
 汗を掻いて額に張り付いた留三郎の髪にキスをして、あぁそれでもまだ足りない、と、伊作は漸く快楽の余韻から浮上してきた留三郎の耳に「留さん、ねぇ…もう一回…」とそう囁いきかけてきた。

「あっちぃ……」
「起きたの?…ほら、お前も飲みなよ」
 そう言って伊作は隣で寝転んでいる留三郎にミネラルウォーターのペットボトルを渡した。結局あの後も、自分の欲に任せて、無理と泣く留三郎を気絶するまで付き合せてしまった。その詫びと言うわけではないが、全ての後始末は伊作がして、今、留三郎はきちんと清潔な寝間着を着こんだまま眠っていたのだ。
 行為の後の重たい体を起こして、彼は自分の髪の毛を掻きあげる。サンキュと短い礼の言葉とともに彼は差し出されたペットボトルを受け取って、中の水を一気に飲み干していた。久しぶりの行為の後は何時も欲が出てしまうなぁと、思いながら今度は伊作が布団の上に寝転ぶ番だった。ぽん、と軽い音がして、空のペットボトルが畳みの上に転がって、再び留三郎が時分の隣に寝転んでいた。首筋に掛かる髪の毛を見て、思わずそれに手を伸ばせば、「何だよ」と彼の手が、それを遮ろうと重なっていた。それをそっと握って、「髪、伸びたね」と零していた。
「あぁ…切るの面倒で…」
「…長いのも良いけど、熱いだろう?」
「お前に言われたくねぇよ」
 そう言って留三郎の視線は伊作の長い髪へと向かっていた。布団の上に広がる長い茶髪。古書店を継いだ時からずっと伸ばしているそれ。どうして今まで切らないのか、そんな事は伊作の中でとうに答えは出ていた。
「…僕は良いんだよ。これが好きなんだ」
「熱中症とかなるなよ、あとなんか禿そうだし」
「酷いなぁ、禿ないよ、それよりお前の方が可能性高そうだ。おじさんの頭を見る限りではさ」
「そういうこと言うの、止めろ」
 そう言って眉根を寄せる癖に留三郎も伊作の手を振り払おうとはしなかった。そっとその掌を返して、むしろ彼の手を握り返して。それにあぁと目を細めながら、伊作は「ねぇ」と低い声を出していた。先ほどの軽口など何処かにやったような、その声に留三郎も眉間の皺をほどいていく。
「夏は、ここにいなよ」
「……そうだな」
「そうだよ、そうすればいい」
 毎年、このやり取りを、全く同じタイミングで、ずっと二人は繰り返している。夏の始まり、春の撮影から帰って着て直ぐに、何時もこうして体を重ねて、夏は一緒に過ごそうと、伊作から誘い、そして留三郎はそれに必ず頷いている。祖父が死んで、伊作がこの古書店を継いだその時からの、全く変わらないやり取りだった。毎年、二人はそうやって繰り返し、それ以上前に進まないままだ。どちらもその言葉を言えず、言わないまま、こうしてずるずると、伸ばした伊作の髪の様に、ただ長く長くこの関係を続けている。
「留三郎、僕、明日はソーメンが食べたいな」
「…もっと確りしたもん食えよ、ばか」
 そう言って二人の視線が絡んで、そっとその唇が重なった、触れるだけ、たったそれだけの、口づけ。暗い闇の中で、夏の虫が鳴いている。電気、消すね、と伊作がそう留三郎に告げ、部屋の明かりがそっと落ちて、二人の部屋に再び夜が戻ってきた。