そして巡る
俺を育ててくれた、っていうか、俺を育ててくれている人は別に何の血の繋がりもない、強いて言えばその時のクラスの担任の先生だった。
俺が所謂天涯孤独の身になったのは、小学校1年生の時。両親諸とも交通事故にあったけど、例によって例の如く、俺は母親の手によって一命をとりとめた。病院で目を覚ました俺は「あぁ、またか」って子供のくせにそんな事を思ったのだ。
もし仮に運命の悪戯って言うのが有るとするならば、よりにもよって二度もその境遇になってしまったっていう、そんな所だろう。神様って言うのはとても気まぐれで、そして同じような事をするのが好きらしい。神も仏も信じてるつもりはねぇんだけど、そう言う事が二度も続けば俺だって、もしかしてそんなのがいるんじゃないかなぁなんて、柄にもなく思ってしまう。
だけど、その一度目は今の人生でじゃない。前の、俺の人生での話だった。
そうこれは二度目の話。俺の二度目の人生の話だ。
一度目の人生で俺は、とある忍者の学校みたいな所に通っていた。その時も俺は天涯孤独の身って奴で、帰る家を持っていなかった。確か戦争で親を亡くしたとか、そんなんだった。だけど、時代が時代だったのもあってか、俺は何とか逞しく生きていた気がする。その辺はもう割とおぼろげだ。俺が一番覚えているのは、多分それが俺の人生一番楽しかった時期だったからなのかもしれないけど、その学園の中で先生とか先輩とか、仲の良い友達に囲まれて生活している時のことばっかりで、完全に一人だった時の事って実はそんなには覚えていないのだ。
そんな俺の人生で、多分友達とはまた違った意味で特別だった人がいた。
土井半助、って多分、今も同じ名前で産まれてきて、やっぱり俺の担任で、そしてやっぱり俺を育ててくれたって言っても過言ではない、そんな人。
そしてこの人はまた、この二度目の人生でも俺の目の前に現れた。
「私がこの子を引き取ります」
大怪我をして、指一本動かせないままの状態で、病院のベッドの上で聞いたのは、土井先生のそんなちょっとだけ緊張したような声だった。
小学校のクラスの担任の先生、俺と先生の関係なんて、今回もたったそれだけの筈なのに。それなのにあの人は今度は自分からそんな風に申し出てくれたのだ。
初めてあの人に会った時、俺は「あー……またこの人の世話になるのか」って、確かそんな事を思った気がする。世話にって言っても、勿論、今の人生じゃあ親は健在だから学校だけの話だろうなって。前みたいに同じ家に住む事も、一緒に食事を摂る事も、バイトを手伝って貰う事も無いんだろうなぁって少なくともあの時はそう思っていた。
なのに。
「狭いけど我慢しろよ。引っ越す余裕なんてないんだからな」
「へーい」
と、俺は元々住んでいた家から持ち出した荷物を片手に土井先生の家に転がり込んでいた。
本来なら親権とか色々関わってくるから、縁もゆかりもない、ぶっちゃけ他人と言ってもいい筈の先生が俺を引き取るなんて難しい筈なのに。俺が入院している間に先生が色々と手続きを済ませてくれたようだった。
後から知った事だけど、俺の両親は駆け落ちの末に結ばれた夫婦らしかった。おまけに両方とも元の家とは和解もしておらず、どちらの祖父母も俺を引き取ることを渋っていたらしい。普通ならそれも人目に着かない所でやる筈なのに、常識って奴が欠如している様な連中だったのか。それとも先生のタイミングが悪かったのか、それで揉めている時に先生が居合わせて、って言う流れみたいだった。
お人よしも相変わらずだなぁって、俺は先生のくっそ狭い一人暮らしの家に転がり込んで、そんな事を思う。
あぁ、でも、だけど。
俺はその狭い家を玄関から見渡しながら、懐かしいなってそう思ってしまった。勿論あの時の長屋とか、その後に引っ越した孤児院の家屋とは作りも全然違う。あの時はこんなシンクやコンロなんて無かったし、洗濯とか掃除とか色々大変だった。家具を売り払うのだって、昔よりもずっと難しくなって。それでも俺は、やっぱり土井先生と一緒にいるその空間を酷く懐かしいと思ってしまうのだ。 それからの俺の人生は、やっぱりあの懐かしい学園を彷彿とさせる様なものだった。
乱太郎がいて、しんべえがいて、そんで土井先生がいて。あと山田先生も、何だかんだとその学校にいる。クラスの奴らとか、先輩達とかも、俺はやっぱり時々だけどその存在を見つけていた。だけど、その中の誰ひとりとして、俺みたいに過去の記憶を持っている奴ってのはいなかった。いや、正確に言えば、俺みたいに鮮明に、なんだけど。
「私ね、しんべえやきり丸って初めて会った気がしなかったんだー!」
「わー、奇遇だね僕もー!」
なんて言ってる二人を見ながら俺は「あったり前だろぉ、だって室町時代にクラスメイトだったんだぜ」っていう言葉をずっと飲み込んでいた。そりゃそうだ、だって言えるわけないじゃん。前世の記憶が有りますぅなんてさ。偶にテレビでそんな子供もいるとか言う話も聞くけど、そんなも普通は直ぐに忘れてしまうもんだって、その番組の中でアナウンサーが言っていた。だから本来俺のこの記憶だって、とっくの昔に頭のどこかに消えてなければいけない筈なのに。なのに、俺はずっとその室町時代の記憶を持ったままなのだ。
それは一体何でなんだろう。
どうして俺だけ、この記憶を持ったまま産まれて来たんだろう。
単なる偶然なのか、それこそ神様の気まぐれなのか。さっぱり判別はつかねぇんだけど。だけど、何かしら意味があるんじゃねぇかなぁって俺は一応子供なりにもそんな事を考えていて。でも実際どうなんだろうなぁってそう思っていた、ある日。
その人は突然俺の目の前に現れたのだ。
「ただいまーっ」
と、そんな声を響かせながら俺は土井先生の家の扉を開いて、そして俺はそこで見慣れない靴を見つけていた。最初は利吉さんかなって思ったんだけど、あの人がこんなスニーカーなんて履くイメージはあんまりない。山田先生の息子さんで、土井先生とはやっぱり兄弟みたいな関係にあるあの人は、どっちかって言うと革靴とかそういうのばっかり履いてた気がする。仮に履いてたとしても、結構いい感じのブランド物のイメージが強くて、こんな安物じゃなかった。じゃあ一体誰が、って俺はそこでまさかと思った。
俺の頭の中に、ふっと何かが過る。
『私が居なくなっても、あいつにはお前がいるから』
って。そんな何処か寂しそうで、でもすげぇ安心した様な声であの人は確かにあの日俺に向かってそう告げた。
ぽんぽんって、もう結構背も伸びて、下手したらあの人よりも少しばかり背も高かったかもしれない。俺よりもずっと年上の筈なのに、まるで子供みたいに煩くて、背もあんまり高くはなかった。そんなあの人が、あの日だけはやけに大人びて笑って俺の頭を撫でてそう言ったのだ。
「あぁ、きり丸、帰ったのか」
俺のただいまに合わせて、土井先生の声がする。玄関の直ぐ隣にある台所と奥にある居住空間を区切る為にある引き戸がからからと開いて、先生が顔を覗かせていた。
「先生、誰か来てんっすか?」
「あ、あぁ、言うの忘れてたな。今日実は私の“友人”が来てるんだ」
そう言って先生がその扉を更に開け放つ。
段々とあの人の顔がはっきりと俺の視界に入りこんでくる。あの人は先生と居る時にはいっつもむすっとした顔をしていたけど、それもやっぱり変わらない。きっと今日も二人で居た時もずっとむっすりしていたんだろう。それも俺は鮮明に思い出していた。
あぁ、って。俺はその顔を見てはっきりと思う。あぁやっぱり、あの人だった。
「どうも」
と、そんな憮然としたあの人の、尊奈門さんの声が俺と土井先生の家に小さく響いて、「あぁやっぱりね」って俺はついそんな事を思った。
**********
尊奈門さんと土井先生の関係を言葉にするならば、それは今も昔もやっぱり“恋人”って奴だった。
室町の頃のあの二人はいわば敵同士の立場にあったけど、まぁ、何か色々あって尊奈門さんの居た所の組織の上の人が学園の方に伝手とか作ってて、割と良好な関係を築いてた様な気がする。その辺は俺も実際曖昧にしか覚えてないし、あの頃のそう言うなんやかやって一晩経てば形勢も敵味方も変わってるなんてざらだった。実際一緒に戦った事もあるし、あの人の上司に出し抜かれた事もある。最初に関わった時なんて、全面戦争みたいなもんだったし。特に尊奈門さんから土井先生への印象なんて、俺から見ても最悪としか言いようのない物だったと思う。初対面の的に、チョークと出席簿でのされて、その後自分の城の連中に散々ネタにされて弄られてたって聞いたし。俺も覚えてるけどあの人は先生に勝負を挑む為だけに休みをとって、しょっちゅう学園に出入りしていた。何時も先生に勝負を挑んでは、文房具でこてんぱんにされて泣いて帰って行く。それだけだった筈なのに。何時の間にかあの二人の関係はそれとは違う別の物に成っていた。
二人でいる時の雰囲気とか、休みの間の先生の様子とか。時々だけど、尊奈門さんも休みの時に先生の家に来るようになったりして。一番最初の時は俺も結構驚いたのを覚えている。
そして今回も。あの二人はやっぱり恋人って言うそんな関係に収まっていた。
「尊奈門さん」
「ん? なんだ?」
俺は宿題を進める手を止めて、テーブルを挟んで向かいに座っている尊奈門さんの名を呼んでいた。あの人は手にしていた雑誌から顔を上げ、俺の方を見ている。別に本読みながらでも返事は出来るのに、どうにもこの人はそう言う所律儀で、それもやっぱりあの頃から少しも変わってはいなかった。
今日は先生が職場の飲み会で家にいない。前までなら俺が居るからってそれも断ってたんだけど、尊奈門さんがこの家に出入りするようになってからは、この人に俺を任せてそっちに行く事も増えていた。やっぱり時代とかそう言うのが変われば、違ってくることもあるんだなぁって思ってしまう。
昔なら、俺と尊奈門さんがこんな風に二人きりになる事なんて滅多になかったのだ。大抵土井先生と俺と尊奈門さんの三人で、俺のアルバイトの無い職を二人が手伝ってくれてたり、その後に一緒に飯食ったりとか、そんな程度だったのに。今日なんか、態々尊奈門さんが夕飯まで作ってくれた。土井先生とは違って、この人はやっぱりそう言うのに慣れてるって言うか、さささーって色んなもんを作って俺に食わせてくれる。家庭的って言えば聞こえはいいんだけど、この人もこの人なりに抱えてるもんって言うのが今でもあるにはあるみたいだった。
「ねぇ、尊奈門さんはさぁ、土井先生の何が良くて付き合ってるんっす?」
「はっ?! な、ななな、何を言って?! え、つ、付き合って、なんか……!」
あーあ、って俺は尊奈門さんの真っ赤になった顔を見て思ってしまう。この二人、もしかして自分達の関係が俺にばれてないって本気で思ってたの……?まぁでも隠してるつもりなんだろうなぁって言うのはちょっとはあったんだけど。
「え、えっとあ、あのな、きり丸……!私とあいつは決してそんなやましい関係ではなくて……!」
「あー、良いっす。そう言うの。っていうか、あんだけ俺の前でいちゃいちゃしててばれないと思ってる方が可笑しいでしょ? 普通友達がこんな風に子供預かったり、定期的に飯作りに来たりしねぇって」
「あっ! そ、それはだなぁっ!」
「良いんっすよー、そんな隠さなくても。別に俺は反対してる訳じゃないんで」
そう、反対とか、そう言うんじゃない。むしろ、俺としてはずっと待ってたって言う方が正しいんじゃないかって、そう思う。
尊奈門さんに再会してからというもの、俺の記憶は学園を卒業した後の事まで思いだせる位に成っていた。触発されたって言うんかな? あの日から室町の記憶はやけにこの二人の事ばっかりを俺の頭の中に浮かび上がらせてくる。一年から二年に進級して、それから三年、四年……俺達が卒業して皆ばらばらに就職して、それから土井先生が学園を止めて、孤児院を開いて、俺がそれを手伝って。そして時々そこに姿を見せる、この人の姿を。俺はやっぱり思いだして、そして、あの日の言葉が一体何時言われた物なのかっていうのも、やっぱり思い出していた。
俺は知ってる、この二人がどうなったのか。
あの人のあの時の言葉がどういう意味だったのか。
その後に土井先生がどんな顔をしていたのか。
俺は全部覚えている。
だからこそ俺はこの二人がまたこんな関係になった事を「やっぱりな」と思いこそすれ、反対するなんてするつもりなんてのは本当全然ちっともありはしないのだ。ただ、どうしても、気になってしまう。あの日のこの人の言葉がずっと俺の胸に引っ掛かり続けている、ただそれだけなのだ。
「んで? 実際の所どうなんっすか?」
って、そう言い募れば、尊奈門さんは顔を赤くしたまま「うー……」ってそんな唸る様な声を上げている。
「ほらー、もう言っちゃった方が楽ですよー。良いじゃないですか、偶には。土井先生もいないんだし」
更にそう押し切ろうとすれば、尊奈門さんはそのまま俯いてしまっていた。さぁ、と俺は更にそれを煽って。そして、決して俺がこの話題を逸らす気なんてないんだって、それが尊奈門さんにも解ったのか、あの人は「その、好きって言うか……」って、もそもそと俺の質問に答え始めてた。
「……その、別にあいつの何が良いって、そういう訳じゃないんだ……会う度に私の事を子供扱いするし、最初に会った時だって、ここって中学生の子でアルバイト出来るんだね、とか言ってきたし」
「尊奈門さん、童顔ですもんね」
「って、言われなくても解ってるよ、そんな事!」
「はいはい、それで?」
「っ……!そっ、それで……」
と、尊奈門さんはまたおずおずと土井先生との馴れ初めを話し始める。初めて会った時の事とか、その後先生が尊奈門さんがアルバイトしてるスーパーに顔を出す様に成った事とか。俺の知らない先生の一面を、あの人はぶすくれながらも俺に聞かせてくれた。あぁでもやっぱりなぁってこの人の話を聞きながら、俺はそんな風に思う。
今も昔も、そうだ。土井先生が素って言うか、先生でも親でも無く、ただの「土井半助」って名前の、一人の男に成れる相手って言うのは、やっぱりこの人だけなんだなぁって。そう実感してしまっていた。
だって先生は普通そんな風に人をからかったりなんかしない。昔も微妙にだけどお茶目な所があって、俺達をずっこけさせたりしてたけど、あれはやっぱり先生って立場からのもんだ。昔から世話になっていたっていう山田一家に対してもそうだし、他の同僚の先生達に対してもそう。あの人はやっぱり何処かで何かの役職って言うか、肩書って言うか、立場って言うか、そう言うのを意識していた様な気がするから。
「基本的に嫌な奴なんだ、あいつは。何時も何時も私を馬鹿にして……だから、私は別にあいつを好いているとか、そう言うんじゃないんだ。ただ……」
「ただ?」
「ただ……何と言うか、目に入ってしまうっていうか……」
「はぁ」
「気が付いたら、見てしまうんだ。あいつの事が……嫌いな筈だったのに。気が付いたらあいつの事を考えて、あいつが来ない日があると、その……寂しい、とか、そう思ってる自分がいて……」
「……」
それを聞きながら、俺はあぁこれは逆なんだなって、そう思った。あの時は逆だった。何時も何時も土井先生は尊奈門さんが来るのを待っていて、その日も先生は尊奈門さんが来るのを待っていた。でも結局その日、先生の元に来たのは、尊奈門さんの上司の、あの包帯男の方だった。
『あの子はもうここには来られないのでね、私が代わりにそれを伝えに来たんだ』
そう言われた時の先生の顔を、そしてその後、先生がどうしていたのかを俺はやっぱり忘れる事が出来ないでいる。
「だから、何と言うか、何処が好きとか、そう言うんじゃないんだ……私もはっきりとは言えないんだけど……」
「……」
「ただ、何と言うか、傍にいたいって、思ったんだと思う」
「傍に、いたい?」
と俺は尊奈門さんのその言葉を、思わず聞き返していた。うん、とあの人が小さく頷いて、それからじっと俺の方を見つめて。そこで俺は思わず大きく瞬きをしてしまった。
「解らないんだ、私も。どうしてあいつなのか。考えても考えても答えは出なくて。だけど、どうしても気になるんだ、あいつが今どうしているのかとか、誰と一緒にいるのかとか。無性に、あいつが近くにいないと落ち着かない……。あいつの事なんて、いけすかない、嫌な奴だって、そう思ってた筈なのに……なのに、嫌じゃなかったんだ」
「……」
「あいつに好きだと言われて、私は、嫌では無かったんだ……」
そう言って尊奈門さんは困ったような、そして今にも泣き出しそうな目で俺の方を見つめていた。これで答えに成ってるか?と尊奈門さんは、多分そんな感じの事を言いたいんだろう。それを察して俺は「まぁ、なんつーかぁ、ごちそう様です?」って、取り合えずそんな風に返しておく。
「なっ、何だよそれ?!」
「取り合えずお二人がラブラブハッピーってのが解ったんで、俺はそれで良いっすわ」
と、そう言って俺はぎゃあぎゃあ喚く尊奈門さんを残して、トイレに立った。ぱたん、と俺の後でトイレのドアが締まる。その向こうでは「何なんだよ―!」と言うあの人のそんな声が聞こえてて。 あーあ……って俺は、何とも言えない声を零しながら、盛大なため息を吐いていた。ずるずると、俺はそのままトイレの扉伝いに座りこんで、膝を抱えて、俺はぼーっとくっそ狭いトイレの天井を見上げてしまう。
『私が居なくなっても、あいつにはお前がいるから』
そう言って俺の頭を撫でたあの人は、今こうして俺と先生の目の前に現れて、そして先生の傍に居たいって、そう言ってくれた。じわり、と俺の目の前が滲んで、そしてあぁ良かったってそう思う。
良かった、本当に良かった。あの人も先生も、そして俺自身も。
俺はずっとずっとあの人に言いたい事があった。ずっとずっと昔、今よりもずっと昔のあの時に。俺はあの人に言えなかった事があって、それがずっと俺の胸につっかえていて。そしてそれがこんな風に過去の記憶として俺の中に残り続けていたんだと、俺は漸く理解した。
ほろり、と一つだけ俺の目から涙が零れ、それからまたぽろぽろと、俺の目から同じ物が溢れて行く。それは、この胸の中にあった何かが溶けだしているんじゃないかと、そんな風に思える程に自然に俺の目から零れて行った。
「あー……二人ともただいまー……」
って言う土井先生の声がトイレの扉越しに響いて、俺はそこで漸くその溢れる何かを拭っていた。流石にそろそろ出て行かないと尊奈門さんも心配し始める頃だ。がちゃり、と扉を開ければ「遅いぞ、この酔っ払い!」と土井先生に小言を言う尊奈門さんが居て、土井先生は顔を赤くしたままへらへら笑って「ほらこれお土産」なんて言っている。そんな光景を見ながら、俺は小さくため息を吐いて「せんせー、おかえんなさーい」と、そんな声をかけていた。
俺が所謂天涯孤独の身になったのは、小学校1年生の時。両親諸とも交通事故にあったけど、例によって例の如く、俺は母親の手によって一命をとりとめた。病院で目を覚ました俺は「あぁ、またか」って子供のくせにそんな事を思ったのだ。
もし仮に運命の悪戯って言うのが有るとするならば、よりにもよって二度もその境遇になってしまったっていう、そんな所だろう。神様って言うのはとても気まぐれで、そして同じような事をするのが好きらしい。神も仏も信じてるつもりはねぇんだけど、そう言う事が二度も続けば俺だって、もしかしてそんなのがいるんじゃないかなぁなんて、柄にもなく思ってしまう。
だけど、その一度目は今の人生でじゃない。前の、俺の人生での話だった。
そうこれは二度目の話。俺の二度目の人生の話だ。
一度目の人生で俺は、とある忍者の学校みたいな所に通っていた。その時も俺は天涯孤独の身って奴で、帰る家を持っていなかった。確か戦争で親を亡くしたとか、そんなんだった。だけど、時代が時代だったのもあってか、俺は何とか逞しく生きていた気がする。その辺はもう割とおぼろげだ。俺が一番覚えているのは、多分それが俺の人生一番楽しかった時期だったからなのかもしれないけど、その学園の中で先生とか先輩とか、仲の良い友達に囲まれて生活している時のことばっかりで、完全に一人だった時の事って実はそんなには覚えていないのだ。
そんな俺の人生で、多分友達とはまた違った意味で特別だった人がいた。
土井半助、って多分、今も同じ名前で産まれてきて、やっぱり俺の担任で、そしてやっぱり俺を育ててくれたって言っても過言ではない、そんな人。
そしてこの人はまた、この二度目の人生でも俺の目の前に現れた。
「私がこの子を引き取ります」
大怪我をして、指一本動かせないままの状態で、病院のベッドの上で聞いたのは、土井先生のそんなちょっとだけ緊張したような声だった。
小学校のクラスの担任の先生、俺と先生の関係なんて、今回もたったそれだけの筈なのに。それなのにあの人は今度は自分からそんな風に申し出てくれたのだ。
初めてあの人に会った時、俺は「あー……またこの人の世話になるのか」って、確かそんな事を思った気がする。世話にって言っても、勿論、今の人生じゃあ親は健在だから学校だけの話だろうなって。前みたいに同じ家に住む事も、一緒に食事を摂る事も、バイトを手伝って貰う事も無いんだろうなぁって少なくともあの時はそう思っていた。
なのに。
「狭いけど我慢しろよ。引っ越す余裕なんてないんだからな」
「へーい」
と、俺は元々住んでいた家から持ち出した荷物を片手に土井先生の家に転がり込んでいた。
本来なら親権とか色々関わってくるから、縁もゆかりもない、ぶっちゃけ他人と言ってもいい筈の先生が俺を引き取るなんて難しい筈なのに。俺が入院している間に先生が色々と手続きを済ませてくれたようだった。
後から知った事だけど、俺の両親は駆け落ちの末に結ばれた夫婦らしかった。おまけに両方とも元の家とは和解もしておらず、どちらの祖父母も俺を引き取ることを渋っていたらしい。普通ならそれも人目に着かない所でやる筈なのに、常識って奴が欠如している様な連中だったのか。それとも先生のタイミングが悪かったのか、それで揉めている時に先生が居合わせて、って言う流れみたいだった。
お人よしも相変わらずだなぁって、俺は先生のくっそ狭い一人暮らしの家に転がり込んで、そんな事を思う。
あぁ、でも、だけど。
俺はその狭い家を玄関から見渡しながら、懐かしいなってそう思ってしまった。勿論あの時の長屋とか、その後に引っ越した孤児院の家屋とは作りも全然違う。あの時はこんなシンクやコンロなんて無かったし、洗濯とか掃除とか色々大変だった。家具を売り払うのだって、昔よりもずっと難しくなって。それでも俺は、やっぱり土井先生と一緒にいるその空間を酷く懐かしいと思ってしまうのだ。 それからの俺の人生は、やっぱりあの懐かしい学園を彷彿とさせる様なものだった。
乱太郎がいて、しんべえがいて、そんで土井先生がいて。あと山田先生も、何だかんだとその学校にいる。クラスの奴らとか、先輩達とかも、俺はやっぱり時々だけどその存在を見つけていた。だけど、その中の誰ひとりとして、俺みたいに過去の記憶を持っている奴ってのはいなかった。いや、正確に言えば、俺みたいに鮮明に、なんだけど。
「私ね、しんべえやきり丸って初めて会った気がしなかったんだー!」
「わー、奇遇だね僕もー!」
なんて言ってる二人を見ながら俺は「あったり前だろぉ、だって室町時代にクラスメイトだったんだぜ」っていう言葉をずっと飲み込んでいた。そりゃそうだ、だって言えるわけないじゃん。前世の記憶が有りますぅなんてさ。偶にテレビでそんな子供もいるとか言う話も聞くけど、そんなも普通は直ぐに忘れてしまうもんだって、その番組の中でアナウンサーが言っていた。だから本来俺のこの記憶だって、とっくの昔に頭のどこかに消えてなければいけない筈なのに。なのに、俺はずっとその室町時代の記憶を持ったままなのだ。
それは一体何でなんだろう。
どうして俺だけ、この記憶を持ったまま産まれて来たんだろう。
単なる偶然なのか、それこそ神様の気まぐれなのか。さっぱり判別はつかねぇんだけど。だけど、何かしら意味があるんじゃねぇかなぁって俺は一応子供なりにもそんな事を考えていて。でも実際どうなんだろうなぁってそう思っていた、ある日。
その人は突然俺の目の前に現れたのだ。
「ただいまーっ」
と、そんな声を響かせながら俺は土井先生の家の扉を開いて、そして俺はそこで見慣れない靴を見つけていた。最初は利吉さんかなって思ったんだけど、あの人がこんなスニーカーなんて履くイメージはあんまりない。山田先生の息子さんで、土井先生とはやっぱり兄弟みたいな関係にあるあの人は、どっちかって言うと革靴とかそういうのばっかり履いてた気がする。仮に履いてたとしても、結構いい感じのブランド物のイメージが強くて、こんな安物じゃなかった。じゃあ一体誰が、って俺はそこでまさかと思った。
俺の頭の中に、ふっと何かが過る。
『私が居なくなっても、あいつにはお前がいるから』
って。そんな何処か寂しそうで、でもすげぇ安心した様な声であの人は確かにあの日俺に向かってそう告げた。
ぽんぽんって、もう結構背も伸びて、下手したらあの人よりも少しばかり背も高かったかもしれない。俺よりもずっと年上の筈なのに、まるで子供みたいに煩くて、背もあんまり高くはなかった。そんなあの人が、あの日だけはやけに大人びて笑って俺の頭を撫でてそう言ったのだ。
「あぁ、きり丸、帰ったのか」
俺のただいまに合わせて、土井先生の声がする。玄関の直ぐ隣にある台所と奥にある居住空間を区切る為にある引き戸がからからと開いて、先生が顔を覗かせていた。
「先生、誰か来てんっすか?」
「あ、あぁ、言うの忘れてたな。今日実は私の“友人”が来てるんだ」
そう言って先生がその扉を更に開け放つ。
段々とあの人の顔がはっきりと俺の視界に入りこんでくる。あの人は先生と居る時にはいっつもむすっとした顔をしていたけど、それもやっぱり変わらない。きっと今日も二人で居た時もずっとむっすりしていたんだろう。それも俺は鮮明に思い出していた。
あぁ、って。俺はその顔を見てはっきりと思う。あぁやっぱり、あの人だった。
「どうも」
と、そんな憮然としたあの人の、尊奈門さんの声が俺と土井先生の家に小さく響いて、「あぁやっぱりね」って俺はついそんな事を思った。
**********
尊奈門さんと土井先生の関係を言葉にするならば、それは今も昔もやっぱり“恋人”って奴だった。
室町の頃のあの二人はいわば敵同士の立場にあったけど、まぁ、何か色々あって尊奈門さんの居た所の組織の上の人が学園の方に伝手とか作ってて、割と良好な関係を築いてた様な気がする。その辺は俺も実際曖昧にしか覚えてないし、あの頃のそう言うなんやかやって一晩経てば形勢も敵味方も変わってるなんてざらだった。実際一緒に戦った事もあるし、あの人の上司に出し抜かれた事もある。最初に関わった時なんて、全面戦争みたいなもんだったし。特に尊奈門さんから土井先生への印象なんて、俺から見ても最悪としか言いようのない物だったと思う。初対面の的に、チョークと出席簿でのされて、その後自分の城の連中に散々ネタにされて弄られてたって聞いたし。俺も覚えてるけどあの人は先生に勝負を挑む為だけに休みをとって、しょっちゅう学園に出入りしていた。何時も先生に勝負を挑んでは、文房具でこてんぱんにされて泣いて帰って行く。それだけだった筈なのに。何時の間にかあの二人の関係はそれとは違う別の物に成っていた。
二人でいる時の雰囲気とか、休みの間の先生の様子とか。時々だけど、尊奈門さんも休みの時に先生の家に来るようになったりして。一番最初の時は俺も結構驚いたのを覚えている。
そして今回も。あの二人はやっぱり恋人って言うそんな関係に収まっていた。
「尊奈門さん」
「ん? なんだ?」
俺は宿題を進める手を止めて、テーブルを挟んで向かいに座っている尊奈門さんの名を呼んでいた。あの人は手にしていた雑誌から顔を上げ、俺の方を見ている。別に本読みながらでも返事は出来るのに、どうにもこの人はそう言う所律儀で、それもやっぱりあの頃から少しも変わってはいなかった。
今日は先生が職場の飲み会で家にいない。前までなら俺が居るからってそれも断ってたんだけど、尊奈門さんがこの家に出入りするようになってからは、この人に俺を任せてそっちに行く事も増えていた。やっぱり時代とかそう言うのが変われば、違ってくることもあるんだなぁって思ってしまう。
昔なら、俺と尊奈門さんがこんな風に二人きりになる事なんて滅多になかったのだ。大抵土井先生と俺と尊奈門さんの三人で、俺のアルバイトの無い職を二人が手伝ってくれてたり、その後に一緒に飯食ったりとか、そんな程度だったのに。今日なんか、態々尊奈門さんが夕飯まで作ってくれた。土井先生とは違って、この人はやっぱりそう言うのに慣れてるって言うか、さささーって色んなもんを作って俺に食わせてくれる。家庭的って言えば聞こえはいいんだけど、この人もこの人なりに抱えてるもんって言うのが今でもあるにはあるみたいだった。
「ねぇ、尊奈門さんはさぁ、土井先生の何が良くて付き合ってるんっす?」
「はっ?! な、ななな、何を言って?! え、つ、付き合って、なんか……!」
あーあ、って俺は尊奈門さんの真っ赤になった顔を見て思ってしまう。この二人、もしかして自分達の関係が俺にばれてないって本気で思ってたの……?まぁでも隠してるつもりなんだろうなぁって言うのはちょっとはあったんだけど。
「え、えっとあ、あのな、きり丸……!私とあいつは決してそんなやましい関係ではなくて……!」
「あー、良いっす。そう言うの。っていうか、あんだけ俺の前でいちゃいちゃしててばれないと思ってる方が可笑しいでしょ? 普通友達がこんな風に子供預かったり、定期的に飯作りに来たりしねぇって」
「あっ! そ、それはだなぁっ!」
「良いんっすよー、そんな隠さなくても。別に俺は反対してる訳じゃないんで」
そう、反対とか、そう言うんじゃない。むしろ、俺としてはずっと待ってたって言う方が正しいんじゃないかって、そう思う。
尊奈門さんに再会してからというもの、俺の記憶は学園を卒業した後の事まで思いだせる位に成っていた。触発されたって言うんかな? あの日から室町の記憶はやけにこの二人の事ばっかりを俺の頭の中に浮かび上がらせてくる。一年から二年に進級して、それから三年、四年……俺達が卒業して皆ばらばらに就職して、それから土井先生が学園を止めて、孤児院を開いて、俺がそれを手伝って。そして時々そこに姿を見せる、この人の姿を。俺はやっぱり思いだして、そして、あの日の言葉が一体何時言われた物なのかっていうのも、やっぱり思い出していた。
俺は知ってる、この二人がどうなったのか。
あの人のあの時の言葉がどういう意味だったのか。
その後に土井先生がどんな顔をしていたのか。
俺は全部覚えている。
だからこそ俺はこの二人がまたこんな関係になった事を「やっぱりな」と思いこそすれ、反対するなんてするつもりなんてのは本当全然ちっともありはしないのだ。ただ、どうしても、気になってしまう。あの日のこの人の言葉がずっと俺の胸に引っ掛かり続けている、ただそれだけなのだ。
「んで? 実際の所どうなんっすか?」
って、そう言い募れば、尊奈門さんは顔を赤くしたまま「うー……」ってそんな唸る様な声を上げている。
「ほらー、もう言っちゃった方が楽ですよー。良いじゃないですか、偶には。土井先生もいないんだし」
更にそう押し切ろうとすれば、尊奈門さんはそのまま俯いてしまっていた。さぁ、と俺は更にそれを煽って。そして、決して俺がこの話題を逸らす気なんてないんだって、それが尊奈門さんにも解ったのか、あの人は「その、好きって言うか……」って、もそもそと俺の質問に答え始めてた。
「……その、別にあいつの何が良いって、そういう訳じゃないんだ……会う度に私の事を子供扱いするし、最初に会った時だって、ここって中学生の子でアルバイト出来るんだね、とか言ってきたし」
「尊奈門さん、童顔ですもんね」
「って、言われなくても解ってるよ、そんな事!」
「はいはい、それで?」
「っ……!そっ、それで……」
と、尊奈門さんはまたおずおずと土井先生との馴れ初めを話し始める。初めて会った時の事とか、その後先生が尊奈門さんがアルバイトしてるスーパーに顔を出す様に成った事とか。俺の知らない先生の一面を、あの人はぶすくれながらも俺に聞かせてくれた。あぁでもやっぱりなぁってこの人の話を聞きながら、俺はそんな風に思う。
今も昔も、そうだ。土井先生が素って言うか、先生でも親でも無く、ただの「土井半助」って名前の、一人の男に成れる相手って言うのは、やっぱりこの人だけなんだなぁって。そう実感してしまっていた。
だって先生は普通そんな風に人をからかったりなんかしない。昔も微妙にだけどお茶目な所があって、俺達をずっこけさせたりしてたけど、あれはやっぱり先生って立場からのもんだ。昔から世話になっていたっていう山田一家に対してもそうだし、他の同僚の先生達に対してもそう。あの人はやっぱり何処かで何かの役職って言うか、肩書って言うか、立場って言うか、そう言うのを意識していた様な気がするから。
「基本的に嫌な奴なんだ、あいつは。何時も何時も私を馬鹿にして……だから、私は別にあいつを好いているとか、そう言うんじゃないんだ。ただ……」
「ただ?」
「ただ……何と言うか、目に入ってしまうっていうか……」
「はぁ」
「気が付いたら、見てしまうんだ。あいつの事が……嫌いな筈だったのに。気が付いたらあいつの事を考えて、あいつが来ない日があると、その……寂しい、とか、そう思ってる自分がいて……」
「……」
それを聞きながら、俺はあぁこれは逆なんだなって、そう思った。あの時は逆だった。何時も何時も土井先生は尊奈門さんが来るのを待っていて、その日も先生は尊奈門さんが来るのを待っていた。でも結局その日、先生の元に来たのは、尊奈門さんの上司の、あの包帯男の方だった。
『あの子はもうここには来られないのでね、私が代わりにそれを伝えに来たんだ』
そう言われた時の先生の顔を、そしてその後、先生がどうしていたのかを俺はやっぱり忘れる事が出来ないでいる。
「だから、何と言うか、何処が好きとか、そう言うんじゃないんだ……私もはっきりとは言えないんだけど……」
「……」
「ただ、何と言うか、傍にいたいって、思ったんだと思う」
「傍に、いたい?」
と俺は尊奈門さんのその言葉を、思わず聞き返していた。うん、とあの人が小さく頷いて、それからじっと俺の方を見つめて。そこで俺は思わず大きく瞬きをしてしまった。
「解らないんだ、私も。どうしてあいつなのか。考えても考えても答えは出なくて。だけど、どうしても気になるんだ、あいつが今どうしているのかとか、誰と一緒にいるのかとか。無性に、あいつが近くにいないと落ち着かない……。あいつの事なんて、いけすかない、嫌な奴だって、そう思ってた筈なのに……なのに、嫌じゃなかったんだ」
「……」
「あいつに好きだと言われて、私は、嫌では無かったんだ……」
そう言って尊奈門さんは困ったような、そして今にも泣き出しそうな目で俺の方を見つめていた。これで答えに成ってるか?と尊奈門さんは、多分そんな感じの事を言いたいんだろう。それを察して俺は「まぁ、なんつーかぁ、ごちそう様です?」って、取り合えずそんな風に返しておく。
「なっ、何だよそれ?!」
「取り合えずお二人がラブラブハッピーってのが解ったんで、俺はそれで良いっすわ」
と、そう言って俺はぎゃあぎゃあ喚く尊奈門さんを残して、トイレに立った。ぱたん、と俺の後でトイレのドアが締まる。その向こうでは「何なんだよ―!」と言うあの人のそんな声が聞こえてて。 あーあ……って俺は、何とも言えない声を零しながら、盛大なため息を吐いていた。ずるずると、俺はそのままトイレの扉伝いに座りこんで、膝を抱えて、俺はぼーっとくっそ狭いトイレの天井を見上げてしまう。
『私が居なくなっても、あいつにはお前がいるから』
そう言って俺の頭を撫でたあの人は、今こうして俺と先生の目の前に現れて、そして先生の傍に居たいって、そう言ってくれた。じわり、と俺の目の前が滲んで、そしてあぁ良かったってそう思う。
良かった、本当に良かった。あの人も先生も、そして俺自身も。
俺はずっとずっとあの人に言いたい事があった。ずっとずっと昔、今よりもずっと昔のあの時に。俺はあの人に言えなかった事があって、それがずっと俺の胸につっかえていて。そしてそれがこんな風に過去の記憶として俺の中に残り続けていたんだと、俺は漸く理解した。
ほろり、と一つだけ俺の目から涙が零れ、それからまたぽろぽろと、俺の目から同じ物が溢れて行く。それは、この胸の中にあった何かが溶けだしているんじゃないかと、そんな風に思える程に自然に俺の目から零れて行った。
「あー……二人ともただいまー……」
って言う土井先生の声がトイレの扉越しに響いて、俺はそこで漸くその溢れる何かを拭っていた。流石にそろそろ出て行かないと尊奈門さんも心配し始める頃だ。がちゃり、と扉を開ければ「遅いぞ、この酔っ払い!」と土井先生に小言を言う尊奈門さんが居て、土井先生は顔を赤くしたままへらへら笑って「ほらこれお土産」なんて言っている。そんな光景を見ながら、俺は小さくため息を吐いて「せんせー、おかえんなさーい」と、そんな声をかけていた。