恋敵

経久が来たその日、風呂に入るのに一悶着有り、そして寝るのにも一悶着有って、次の日を迎えていた。
全て、委員会を鬼の様相で終わらせて帰ってきた兵助が起こしたものだが、どうやって懐柔したのか(と、兵助は思っている)大抵、雷蔵と竹谷が経久の味方をしたため、殆ど彼の独り相撲で終わっていた。
そして、朝もまた一悶着起こしている。
授業に行く間、経久に預かって貰おうと言い始めた二人に猛反対をしたのだ。
しかし、雷蔵の「好い加減にしないと、僕も本気で怒るよ?」の一言で黙らされてしまった。
正直、この三郎の姑のような存在の彼にはどうしても勝てないでいる。
結局、三郎は今経久と一緒に遠駆けに来ていた。
馬はどうやら経久自身が乗ってきたものらしく、良く懐いている。
初めて、かなりの速度を出す馬に乗って三郎もご満悦という感じだった。
こういう度胸は据わっているのかと経久も笑みがこぼれる。
裏裏山の、学園を見渡せる辺りまでやってくれば、その見事な景色に思わず声を零した。
「すごい、遠くまで見える…」
「これは、なかなかの絶景よ」
うん、と頷く三郎の頭を軽く撫でれば小さくふふと笑いを零した。
「……気に入ったか?」
そう問いかけると「はい」と返事をする。
「お前の父も、これくらい素直であればのう」
そう言って溜息を零すと、三郎はすいと視線を下げた。
寂しそうと言うよりは、複雑という様子に経久も首を傾げる。
「父上、怒ってませんでしたか?」
「いや、そんな事は無かったが…気になるのか?」
そう尋ねると、こくりと首を横に振る。
「父上に色々教わっていたから。お家に帰らないから、もう、要らないと…言われてしまうかもと思って」
「そんなことは無かろう、親は子を可愛いと思うものだ」
「でもっ…!」
と、子供は泣きそうな目で彼を見上げた。
何処か必死そうなその様子に、そっと頭に手を置いてやる。
「父上は、いつも怒ってばっかりで。私の事も兄上や弟達にも優しくしてくれたことはないから。術や芸を覚えても、うなずいてくれるだけで…。失敗したら怒るのに…」
そう言って、小さな白い手がきゅぅと経久の服を握る。
その様子に更にしっかりと抱えてやれば、甘えるように頬を寄せてきた。
確かに、と出雲においてきた自分の側近を思い浮かべた。
あの素直という言葉とは無縁の男は、自分の子供にさえも同じように振る舞ったのだろう。
厳しくするのは方針と言っていたが、これではその中の誰かが歪むのも無理はない。
そして、彼自身も同じように育てられてきたのだろう。
それを思えば、確かに無理もない話だと思うのだが。
「…良い。ここに居ることはあれも解っている。きちんと勉強をして、誰かを困らせたりしなければ、怒られまい。もし、怒られたら儂に言うが良い。儂が、そなたの父を叱ってやるから」
「お殿様が?」
きょとんと、不思議そうな顔をした彼に経久はあぁと頷いてみせる。 「儂はそなたの父の主君だからな。主君の命は絶対よ」
そう言ってやれば腕の中の子供が安堵するように破顔した。
一体どれだけ怯えられているのだと、多少呆れそうになるが、それも仕方がないのかと思う。
そう言えば、母親のことは気にしてないのかと「帰るか」という言葉を口に乗せながら思った。
元より、子供というのは母親を恋しがるものだし、自分にも多少なりとも記憶はある。
幼い頃は、母親に良く甘えていたのにと、それも出来なかったのだろう子供を見やった。
「…厳しいのも考えものだな」
「ん?」
と、首を傾げた三郎に「いや…」と言葉を濁して、経久は馬の足を学園へと向けた。

帰り道、ゆったりと馬を進めたせいか、腕の中で三郎は完全に寝ついていた。
起こすとも考えたが、結局経久は子供を腕に抱いて、五年長屋へと戻ってきた。
夕方も近い時間になれば、授業を終えた生徒達が帰ってくる。
勿論、それに兵助も含まれていた。
「三郎!」
嬉しそうな声を上げて、三郎を見つけたは経久を見つけた途端に彼の表情はむっとした物になった。
まぁ、当然だろうと経久は隠す気さえない兵助の態度に楽しそうに笑みを浮かべつつ、彼の居る縁側へ、三郎を抱いたまま腰掛けた。
「……何処に行ってたんですか?」
たっぷりの間の後、兵助は経久へと尋ねる。
三郎を膝から降ろそうにも、彼はぎゅっと経久の着物の袖を掴んで離そうとしなかった。
子供の力と言うのは意外に侮れない。
しっかりと掴まれたそれは兵助も経久も引きはがすことは出来なかった。
それでも兵助がここを離れないのは、何よりも三郎の身を案じてのことだ。
稚児の趣味はないらしいと聞かされていても、一度植え付けられた不信感は拭えない。
それも、あんな形で植え付けられたのだ。
互いに、この距離を埋めるのは難しいことを自覚しているのだろう。
「あぁ、裏裏山まで遠駆けにな。なかなか良い眺めであった」
満足そうに語る経久に、兵助は「そうですか」と小さく零した。
「…三郎は家を恋しがってはいないのだな」
「は?」
「聞いたら、あまり家には帰りたくないようだ。子供は皆、家を恋しがると思っていたが。宛てが外れた…」
三郎のすべらかな頬をそっと撫でながら経久は呟く。
「アンタ、やっぱり諦めてないんですね」
「当たり前だ。これでも儂は、野心が強い方でな」
そんなの見れば解るよ、とは言わぬまま、兵助は眉根を寄せるだけだ。
「……だが、野心が強くても欲しい物が全て手にはいるわけではない」
「三郎の事ですか?」
思わず尋ねたのは経久の腕の中にいる"人"の事だった。
権力や金が有っても、本当に欲しい物は手に入らない。
それを実感している人の言葉だと思う。
優しい手つきは、その言葉に動じることなくまだ頬を撫でていた。
「…そうだな。こやつにしても、儂の手には収まってくれぬ」
「こやつ、も…?」
思わず聞き返せば経久は小さく笑った。
「三郎は父親によう似ておる。素直ではないし、直ぐに意地を張る。無茶をしても…それをお前達に見せたりはしないだろう?」
「まぁ、そりゃぁ…私や雷蔵にも」
後、ハチ…と続ければ、経久は小さく頷いた。
案の定と言いたげな表情に、兵助も流石に首を傾げた。
「強情で意地っ張りで…本当によう似ておる…」
そう言って、三郎の髪を撫でる仕草はとても優しい。
それが前に彼を無理矢理に組み敷いたとは思えないほどだった。
(でも、別の所を見てる)
と、兵助はそう思った。
彼の目は確かに、子供になった三郎を見ているけれど、でもその向こうに何か別の物を映している気がした。
この人は、この人が本当に想っているのは…、もしかして。
「あ、兵助、経久様と三郎も。ここに居たんですか」
と、そんな明るい声がして二人はさっとその主−雷蔵の方を見やる。
「三郎、もしかして寝てるんですか?」
と、腕の中にいる子供見つめた。
新しい気配が、周りよりも大きな声を出しているのを感じたのだろう、三郎はぱちぱちと目を瞬かせながら起きあがった。
「…らいぞー」
「おはよ、三郎。そろそろ夕飯だよ」
そう言いながら、経久の膝にいた子供は雷蔵の腕の中へと収まっていく。
「なら、儂はそろそろ部屋に戻らせて貰おう。学園長殿と、将棋の約束もあるのでな…」
「あ、すいません。今日は一日見て貰って、有難う御座います」
と、雷蔵が頭を下げれば経久は「いや」と言葉を切って立ちあがる。
「なかなかに楽しかった。三郎、また明日な」
そう言うと三郎は「うん」と頷いて、去っていく彼に手を振っている。
兵助もその後ろ姿をぼんやりと見送った。
「…なぁ、雷蔵」
「ん?何?」
と、腕の中でまた寝息を立てそうな三郎の背中を軽く叩きながら、雷蔵が不思議な顔をして振り返る。
何処か呆けているような兵助に、雷蔵は更に首を傾げた。
「うん、あー…や、やっぱり何でもない」
「何だよ、気になるじゃないか」
不満そうにすれば兵助は「ごめん」と小さく返した。
「まぁ、良いけど。それより夕飯行くでしょ?僕は三郎に顔洗わせてから行くから。ハチにいっといて」
「あぁ、解った」
と、短く頷けば雷蔵は三郎を抱いて、洗面所の方へと歩いていった。
「あの人、多分…」
いや、きっと…。
そこまで考えて兵助は頭を振った。
それは多分口に出してはいけない事だ、と彼は一人ごちる。
そして、夕飯の事を竹谷に伝えるべくそこを立ちあがったのだった。