作法委員長

経久が経つ朝、別れる記念にと経久は三郎を抱きしめさせてくれと言った。
それに素直に頷いたのは、幾度も遊んで貰った感謝からだったのだろう。
三郎はぎゅっと首に手を回して、抱きついていた。
それを見ながら、面白くない気持ちともどかしさが兵助の中にあったが結局雷蔵の”良い笑顔”で止められてしまった。
邪魔をするなよ、というそれにあっさり陥落する当たり自分はやっぱり彼に勝てないのだなぁと何回目だろうか、実感してしまった。
抱きしめた三郎は経久の耳元で「父上と母上に、三郎は元気ですって伝えてください」と言っていた。
無事を伝えて欲しいと言った後に、微かに目が潤んだのを見て、やはり親が恋しい部分もあるのだろう。
それでも一緒に帰らないのは、ここが居心地が良いと思ってくれているからだった。
そんな別れが終わった後、午前の座学を終えて三郎は図書室に居た。
思いの外、あっさりと三郎が懐いた長次が自分が預かろうと申し出てくれたのだ。
4年生も5年生も実習続きで上手く相手が出来ないが、こういう風に頼れる先輩がいるのは有り難かった。
留三郎と伊作は今日は委員会で忙しく、流石にそこにおいておくのは気が引けたらしい。
用具委員会は小さい子が多いが、体育や会計ともめ事が多いし、保健は保健で怪我人なんかが今日は多そうだからと実習の日はと断られたのだ。
図書室でカウンターの近くの机で本を読んでいた三郎は不意に厠へ行きたくなって顔を上げた。
それに気が付いた長次がこくんと頷いて、行ってこいと促してくれた。
それにやっぱり頷きで返して、三郎は廊下へと出て行く。
厠へ行く途中、朝別れた男を思い出した。
「一緒に帰るか?」と誘ってくれたが結局自分は首を横に振った。(兵助が後ろで何か言おうとしていたが、雷蔵に止められていた)
確かに家は恋しいし、自分がここに居て良い理由はないけれど、でも、どうしてもここを離れがたいのだった。
みんなが優しくしてくれると言うのは一番だけれど、幼いながらにもここの方が実家よりも自分の居場所が有るように思われるのだ。
厠に行く間に、ぼんやりと実家の事を思い出した。
優しいけれど気弱な母、そして自分を厳しく躾る父。
父に絶対服従の子供だったけれど、それでも彼処で生まれ育った事に代わりはないのだ。
じわりと目の前が潤んで、それが零れないようにと三郎は手の甲で目を拭う。
ひくん、と喉のが鳴って泣きそうになってしまった。
幾らここが居心地が良いと思っても、家が恋しいのは変えようがないのだ。
厠に行って、用を足して、帰る途中ふと障子が開いている部屋があった。
微かに開いている所から顔を覗かせれば、最初に目に入ったのは綺麗な黒髪だった。
それを見て、三郎の目がぱちりと瞬きをした。
「はは、うえ…?」
思わず零れた言葉に、その黒髪の主がふとこちらを振り返ろうとしたのが解って、三郎はさっと柱の所に姿を隠した。
それを見ながら黒髪の主−立花仙蔵はくつりと喉の奥で笑った。
あれが件のと、微かに覗く小さな茶色の頭に面白そうに目を細めた。
だが、あの時小さく呟かれた言葉は流石に解さなかった。
(母上?と今、言ったような気がしたが…)
まぁ、良いかと仙蔵は一人ごちてまた手元のフィギュアへと視線を戻す。
流石にこれには怯えるだろうかと、見えないように布を掛けた。
そしてまた、後ろに軽く視線をやれば此方を見ているようだった。
髪の毛に受ける視線を感じながら、仙蔵は委員会で出そうと思っていた練り切りへと手を伸ばす。
人数分より少し多めに買っておいて正解だったかも知れない。
ひょことこちらに覗く幼子と視線を合わせれば、はっと体を跳ねさせた。
普段の三郎とはまた違う様子に、くつくつと喉の奥で笑った。
わたわたとどうすれば良いのか、逃げ出したそうにする子供にちらと練り切りをちらつかせれば、あ、と小さく言葉を零した。
「…鉢屋」
と、自分でも随分優しいと思う声で名前を呼ぶと子供はひょこと頭だけを完全に覗かせた。
「鉢屋…これをやろう」
そう言って、練り切りを差し出すと子供はそろそろと姿を現した。
「…あの、私……」
仙蔵の手の中にある、綺麗な花の形をした菓子に目を奪われてしまって、どう挨拶をしていいのか解らなかった。
薄桃色の菓子は可愛らしい牡丹の花を象っている。
「…鉢屋、三郎って言います。その…」
お菓子、と顔に書いてあるのを何とか隠そうとする様子に仙蔵は目を細めて、開いた方の手で自分の方へ呼んだ。
それに小さく頷いて三郎はそっと傍へ寄っていく。
「あぁ、知っている。お前のことは学園中で噂になっているからな」
「そう、なんですか?」
首を傾げて、それでも視線を練り切りから外さないのは子供らしいと思う。
そうだよ、と頷くとふぅんと小さく呟いた。
その手を取って、練り切りを握らせればにっこりと嬉しそうに顔を綻ばせて「ありがとうございます」とお礼を言われた。
ちょこんと腰を下ろして「食べても良いですか?」と聞かれて、仙蔵はあぁと返事をする。
お茶も煎れてやれば、嬉しそうにまたお礼を言われた。
「そう言えば、さっき私を見ていたようだが、何かあったのか?」
と、名前を教えた後に尋ねれば三郎は練り切りを食べ終わってから頷いた。
「はい…あの……」
ん?と先を促してやれば、どこか恥ずかしそうに視線を一度下に向けてから自分を方を見つめた。
「髪の毛が、凄く綺麗で…母上に、似てるなって思って…」
「お前の母親に?」
ほう、と呟けば三郎は「はい」と大きく頷いた。
「母上は黒い髪が凄く綺麗で…。後、舞いがすっごく上手で。あんまり一緒に居られないけど…」
「そうか」
「はい、やっぱり…顔は似てないけど」
「それはそうだろう」
そう言って笑えばはい、と三郎は頷いた。
思いの外懐かれたな、と実は意外と子供好きらしい仙蔵は嬉しそうに顔を綻ばせたのだった。

「三郎が帰ってこないんですか?」
兵助が図書室へと迎えに行けば、長次から厠に行ったまま帰ってこないと言われた。
雷蔵と竹谷はまだ実習自体が終わってないらしく、最初に(無理矢理)終わらせた兵助が迎えに来たという次第だった。
迎えに来た時には、丁度長次も探しに行こうとしていた時だったらしい。
じゃあ、一緒にと何処かで寄り道していないのかと視線やら気配を配りながら歩く。
ふ、と作法委員室の所の障子が微かに開いているのに、長次が気が付いた。
つい、と指さされた方を兵助も見やればそこから、微かに零れる子供の声がする。
「彼処ですか?」
作法委員…忍術学園でも有名な”質の悪さ”を誇る委員だ、と兵助は背中に汗をかくのが解る。
しかも彼処にはあの綾部が…いや、でもまだ実習は終わってないからここに居るはずない、と兵助は自分に言い聞かせた。
「そうかそうか、ならまた今度遊びに来ればいい。兵太夫のからくりを見せてやろう」
「ホント?」
きゃっきゃっと楽しそうな声を聞いて、兵助は思い切り体の力が抜ける気がした。
長次がそれにも構わずに「仙蔵、邪魔する」と言いながら障子を開けば、仙蔵の膝で首をフィギュアを「すごーい」と言いながらみている三郎が居た。
自分と最初に会ったときに見せた怯えた様子。
あの6年生の中でも、1,2を争う怖さで有名な仙蔵に、どうしてここまで懐いたのか、と兵助は思わず肩を落としてしまった。
「中在家先輩……」
名前を呼ばれ長次が「何だ…?」といつもの調子で返事をした。
「…先輩達って、意外と、子供好きだったんですね」
心の中にある様々な思いがない交ぜになって、漸く出てきた言葉はそれだった。
三郎は三郎で「あ、へぇすけ、お帰りー」と無邪気に手を振っているだけだったが。