事の発端

朝、兵助の目が覚めると隣にいたはずの人がいなかった。
ぼんやりした頭で布団の、後を手で探ってもそこは冷たいばかりだ。
暫しして、彼ははっと微かに息を吐きながら覚醒した。
「三郎?」
思わず名前を呼んでも、返事はない。
「…部屋に、戻った?」
下ろした髪をかき上げながら、彼は自分の寝間着を腕を伸ばして探した。
昨日の夜も、三郎は自分の部屋に泊まったはずだった。
休みの前日と言うのも有って、互いに空が白むまでむつみ合っていたのに。
そういう時、寝起きの悪い彼は大抵昼過ぎまで自分にくっついて寝ているのに。
「私、何かしたのか?」
思わず考え込んでしまうくらいに、こんな状況は珍しい。
彼の機嫌を損ねること…、損ねること…と昨日の夜の状況を思い出してみる。
精々、ちょっとしつこく焦らしたくらいだし、と首を傾げた。
それくらいで、勝手に部屋に帰るだろうか。
精々、次の日の朝、盛大に拗ねて機嫌取りを要求するくらいだと今までの事を振り返る。
「……まぁ、雷蔵に窘めて貰うか」
何かあっても、と続けて兵助はあっさりと布団へと戻った。
久々知兵助−恋仲の相手が怒った時のことは彼の親友に放る癖のある人間であった。


「兵助、兵助、兵助えええええええええ」
雷蔵の大声が五年長屋に響き渡ったのは昼頃の事だった。
勢いよく廊下を走り抜けながら、兵助の名前を呼んで、部屋の障子を勢いよく開ける。
すぱぁんという音と供に、青ざめた雷蔵が中に入ってきて、まだ布団で寝ていた兵助も流石に体を起こした。
「なぁんだよ、雷蔵。何かあったの?」
目を擦りながら兵助も問い返す。
その様子に苛々したように雷蔵ははー…と肩で息をした。
「もう!何かあったじゃないよ!ちょっと、取りあえず今すぐ来てよ」
ほら、と言って雷蔵は兵助の腕を引いた。
「え?え?」
と、首を傾げながら兵助は部屋を半ば引きずられるようにして後にした。
なぁ、三郎帰ってない?と尋ねようとして、何となくそのタイミングを逃してしまったのだった。


雷蔵と三郎の部屋の前まで引きずられてくれば、漸く兵助は解放された。
はぁはぁ、と肩で息をしている雷蔵など滅多に見ないなぁと暢気なことを思いつつ、ぼさぼさの髪を手櫛で整える。
「これ!どういう事なの?兵助!」
怒鳴られながら開けられたのは、その目の前の障子だった。
ぱぁんという音と供に目の前に現れたのは、「よぉ、兵助」と片手を上げる竹谷と、その隣で饅頭を頬張る雷蔵そっくりの子供だった。
あまりの光景に兵助は二、三度瞬きをして、障子に手を掛けると一度それを閉めて、雷蔵に向き直った。
「…雷蔵、お前隠し子が居たのか?」
「その計算で行くなら、あの子は僕が8歳の時の子って事になるんだけど?」
「お前の隠し子じゃなかったら何だって言うんだよ!それにそいつがここに居るからって、私には…えっと、あんまり関係ないじゃないか!」
まるで私のせいみたいにして連れてきやがって!と続けると、はーっ、と盛大に雷蔵が溜息を吐いた。
どうしてお前が溜息を吐く、と兵助も目を細めた。
「…あの子、5年長屋をね、ぶかぶかの寝間着と仮面と鬘を着けて泣きながら歩いてたの。それをハチが見つけて。一年生にしては小さいし、鬘とかにも見覚えがあったから聞いてみたんだよ、お名前は?って」
「それで?」
「…鉢屋三郎、6歳ですって返事が返ってきたらしくて」
「ごめん、私耳悪くなったみたいでもう一回言ってくれる?」
「兵助、僕、そういうボケはあまり好きじゃないんだけど」
そう返されて、兵助ははい、と返事をした。
三郎、と言われて兵助は少しだけ障子を開けて、中を見つめた。
朝、目が覚めて隣にいなかった人は今はどういう訳か、こんな姿で饅頭を頬張っている。
一度だけ、彼の実家に行ったことがあるが、躾の厳しい家で育てられてきた事もあってか、饅頭を頬張っているのも何だか、大人しめだ。
竹谷に茶を差し出されると「ありがとーございます」と返事をした(この時、竹谷はびっくりして急須を床に落とした)。
「…可愛いな、三郎」
「まぁ、それはおいといて。兵助、心当たり無いの?三郎がああなったの」
「可愛い、何て言うか、すごく可愛い」
「兵助?僕の話聞いてる?」
可愛い、ともう一度彼が呟いたのと障子が開くのは殆ど同時だった。
「三郎!」
大きな声を出すと、子供はびくと肩を揺らして、兵助を見上げた。
「お前、何で直ぐに私を起こさなかったんだ!」
一緒に寝てたのに!と言いながらいきなり腕を伸ばした。
「あ、兵助!待って!」
と後ろで雷蔵の声が聞こえたの等耳に入っているはずもない。
いきなり三郎を抱き上げて「可愛いなぁ」と言って頬ずりを始めたのだ。
あまりの剣幕に竹谷も呆然とその光景を見つめるだけだ。
しぃん、と一瞬の沈黙が部屋に落ちた。
そして、「ぅ、ぅわああああああああん」という声が、三郎の口から上がった。
火がついたように、耳元で泣かれて流石に兵助も目を見開く。
うわぁああん、という声は部屋中に木霊して、はっと残りの二人が我に帰った。
「兵助!下ろせ、取りあえず三郎をここに下ろせ!」
「え、ええ?何で?!」
「良いから!下ろして、兵助!」
「わ、解った」
と慌てて、三郎が元いた座布団の上に下ろすと、彼はひくひくとしゃくり上げながら、顔中に溢れた涙を手の甲で拭った。
あまりの剣幕に、兵助は何が何だか解らないという様な視線を竹谷と雷蔵に向ける。
雷蔵は三郎の傍に座って、頭を撫でながら「大丈夫だよ、びっくりしたね」と言いながら宥めている。
「ばっか、お前。三郎が極度の人見知りだったって忘れたのか?」
「あ、ああっ!」
思い出した、と言うように兵助も声を上げる。
一年生の頃、確かに違うクラスではあったけれど彼の人見知りは有名だった。
同じクラスの竹谷や雷蔵でさえ、うち解けるの一月以上掛かっている。
それをすっかり忘れていたのだ。
しかも相手は更に警戒心やらが強い子供、泣き出すのなどちょっと考えれば解ることだったのに。
申し訳ない気持ちと、ショックとが混じり合いながらも兵助は膝を突いて、謝ろうとした。
「ごめん」と言いながら頭を撫でようと、手を伸ばす。
が、「っ…!」と三郎が身を竦めたのが解った。
怯えるようなその仕草は、更に兵助に衝撃を与えた。
(怯えられた、三郎に怯えられた…)
と、その言葉が彼の頭の中を駆け巡る。
「へ、兵助?」
その一部始終を見ていた雷蔵が、流石に可哀相になって声を掛ける。
だが、それも聞こえているのかどうか、彼はふらりとよろめきながら立ちあがった。
「…ちょっと、頭冷やしてくる」
そう言って扉の方に向かう兵助の背中は哀愁ばかり背負っている。
もう、掛ける言葉もないと二人は手を微かに伸ばしたままそれを見送るしかなかった。
廊下に出て、扉を閉めて、兵助は縁側に膝を抱えて座り込んだ。
そして、体を横に倒す。
縦と横が反対になった視界がうっすらと滲んでいるのは気のせいではないだろう。
「…嫌われた…三郎に、嫌われた…」
だるまが転がるように、微かに揺れながらそう呟いて、彼はうぅっとすすり泣いてしまった。

部屋の中では、三郎のすすり泣きと雷蔵の宥める声が混じり合っている。
「大丈夫?もう、落ち着いた?」
と顔を覗き込みながら三郎に尋ねるとこくんと首が下がる。
良かったと竹谷と顔を見合わせると、三郎がちらりと障子の向こうを見つめた。
「…びっくりして」
「え?」
「あんな風に抱っこされたことがなかったから。びっくりして、それで、泣いてしまったから。怒られるかと、思って…」
成るほど、と雷蔵は障子の向こうを見やった。
そして目の前の彼の家庭環境を思い出して、何となく納得してしまった。
あの父親の元で育ったのなら、頭を撫でられたり抱きしめられたりなど無かったのだろう。
手を伸ばされても、大抵は叱られる方に思考が向いてしまうのも当然だと思った。
それも完全に忘れているのだろうなぁ、と部屋を出て行った友人を少しだけ哀れに思う。
謝らないと…と小さく呟いた言葉が聞こえて「そうだね」と言って、また頭を撫でる。
微かに擽ったそうにしたのを見て、こちらまでも笑みがこぼれそうだった。