12 / それだけが
体が重いと感じたのは久しぶりだった。
目が覚めた時、私の体はやけに重たくて、ぐったりして指を動かすのも億劫だった。
それが何を意味しているのか、私はぼんやりした思考の中で理解したのだ。
あぁ、私自身も既に排除されようとしていると。
明確な感覚ではなかったけれども、それでも理解するには十分だった。
泥の中にいるような眠りのせいで、私の体は言うことをきかなくなりつつあった。
きっとこんな風に眠気に呑まれていくのをあの人は感じていたのだろう。
もう、私の頭の中にもあの二人は霞がかりつつある。
覚えていようとしても、ぼんやりとした輪郭があるだけになってしまっている。
怖いと思ったのは、忘れていく事だった。
「三郎?起きてる?…ご飯買ってきたよ?」
そんな声が響いて、私はゆっくりと首を玄関へと向けた。
心配そうな眼をして、こちらを見てくるのは雷蔵だった。
何時もの彼だ。
あの日、あの二人の安否を確認しに行った日から私は少しだけ雷蔵が怖かった。
何時、出てくるか解らないあの冷たい彼は、私の予想に反してあれ以来姿を見せていない。
私に何時のも優しい雷蔵だった。
大丈夫?と尋ねられて私は体を起して、肯いた。
眠っていたせいか、体のだるさは大分取れている。
テーブルの上に置きっぱなしにしておいたミネラルウォーターを飲んで息をつけば、雷蔵が隣に座ってきた。
目の前に置かれた食事にはなかなか手をつける気にはなれなかった。
手を伸ばす様子を見せない私に気を使ってか、雷蔵も手を伸ばさない。
「ねぇ、三郎。さっき、兵助に会ってきたよ」
「兵助に?」
そう問い返すと雷蔵はこくりと肯いた。
「うん、食満先輩と善法寺先輩の事確かめてきた」
そう言われて私はようやくあの二人の名前を思い出した、そうだ、そんな名前だったと。
「…なんだか、不思議だね。いつもは僕が忘れて、他の人が驚いてたのにさ。最近はそれが逆なんだ。なんだか、申し訳なくなる」
「……」
「僕もさ。他の人にあんな思いをさせていたんだって。忘れるって事は、一番ひどい事なんだって思っちゃった」
「そう、だな」
なら、私は今あの二人に対してとてもひどい事をしているんだろう。
言葉にはしないまでも、視線を落としてしまう。
「だからさ、三郎。僕ね、ちょっとだけ頑張ろうと思うんだ」
「雷蔵?」
「前にね、兵助に会ったときに言われたんだ。思い出せるってちょっとでも思ってみてほしいって。そうしたら、いろんな事が思い出せるかもしれないって。思い出せないって思いこんでるだけだから、思い出せるって信じれば、きっと思い出せるよって」
だから、と続けようとする雷蔵の言葉をさえぎるように私は立ち上がっていた。
悔しいと、思ってしまったのだ。
今まで私は散々、雷蔵に思い出してほしいと伝えてきたはずだった。
それも君は全部忘れてしまって、次の日には何の事?と聞いてきたのに。
なのに、君は兵助の言葉ならば耳を貸して、そう信じてみようと言う。
それがあんまりにも悔しかった。
突然立ち上がった私を見て、雷蔵は慌てたように「三郎?」と僕の名前を呼んでいる。
「…ちょっと、外に行ってくるよ」
「三郎?どうしたの?僕何か、気に障るようなこと…」
「言ってない。私が外に行きたいだけだ」
そう吐き捨てるように言って、私は部屋を飛び出した。
慌てたように、「三郎、待って」と言う雷蔵の声は聞かないふりをする。
何が、気に障るような事だ。
君は本当に、何も解ってくれない。
私の気持ちは、君には届かない。
さざ波の音が耳障りだ。
気がつけば、私の足はあの海に向いていた。
食満先輩が消えてしまったあの海に。
ざぁと吹き抜ける風も、鬱陶しいくらいに繰り返す寄せて離れる波も何一つ変わりやしない。
それが余計に腹が立って、思い切り砂を蹴り飛ばす。
何度も、無駄な行為だと解っていながら、何度も何度も、繰り返した。
はぁはぁと、肩で息をするくらいに繰り返した頃、後ろでぱちぱちと拍手が聞こえて、思わずにらみをきかせながら振り返ってしまった。
「タカ、丸さん…」
「ずいぶん、イライラしてるんだね、鉢屋君」
そう言ってタカ丸さんはにっこりと笑って、拍手を止めた。
思わず舌打ちをすれば、彼は自分の両手を見つめて「ごめん、」と謝罪の言葉を口にする。
「不破君と何かあったの?」
そう言われて、私は口を噤んでしまう。
何もない、と言えないのは彼が―タカ丸さんが少なくとも私の中では特別な部類に入るからなのだ。
この感情は、食満先輩にも少なからず持っていた。
母と子供、と言うよりは兄弟に近いのだけど、チャイルド達はそうではないという。
『俺たちがお前を好きなのは、お前が母親だからだよ』
と、食満先輩がそう言ってきたのは、ずっと昔の事だ。
一度思い出してしまえば、記憶ははっきりとその形を現してくれた。
「…不破君、まだ思い出してくれないの?」
そう言いながら、タカ丸さんは砂の上に腰を下ろす。
見上げられる視線は隣に来いと言うことなのだろう。
私も隣に座って、タカ丸さんの方を見やる。
「言っちゃえばいいのにさ。体の事も寿命の事も…昔会ったことがあるんだってことも。そこでした、約束の事も」
「…でも、自分で思い出してほしいんです」
「どうしても?」
そう言われて、私はこくりと肯いた。
あぁ、泣きそうだと自分の目が潤んでいるのが解った。
微かに漂った涙の気配を感じたのだろうか、タカ丸さんの手が伸びて、私の頭をそっとなでてくれる。
「これじゃあどっちが”母親”か解らないよ」
「……でも、雷蔵は、私の言葉じゃなくて、兵助の言葉を信じるんだ」
「うん…」
「私は何度も、思い出してと言ったのに…。雷蔵は…」
そう言って喉を詰まらせれば、タカ丸さんは自分の方に凭れるようにと肩に腕をまわしてくれる。
甘えるように頭を寄せると、また頭をなでられる。
「……思い出せるって信じれば良いって言われて。それで、信じる気になったって…。私の言葉は全て忘れてしまうのに…」
何で、と思わずこぼせばタカ丸さんはそっと手を下す。
「…でもね、鉢屋君。不破君は誰のために信じようって思ったのかな?」
「誰の、ため?」
「その切っ掛けが誰であってもさ。誰のために思い出そうとしたのかって言うのが、一番大事だと思うんだ」
ねぇ、と言われて私は顔を上げる。
「僕はね、不破君は少なくとも君のために思い出すんだと思うよ。そうじゃなければ、ここまで来るはずないんだもの」
そう言われて、はっと私はタカ丸さんから体を離す。
「らい、ぞう?」
思わず名前を呼んで、辺りを見渡せば、私たちから距離をとったところで雷蔵は唇を噛んでこちらを見ていた。
「ほら、行きなよ、鉢屋君」
「タカ丸さん……」
そう言われて、私はゆっくりと立ち上がる。
「ねぇ、鉢屋君。…僕はね、世界は僕達を捨てようとしているわけじゃないって、そう信じてるんだ」
そう言ってにこりと笑うタカ丸さんに私は首をかしげるしか出来なかった。
どういうことだろう、と尋ねようとしたけれど、雷蔵から手首をつかまれてそれ以上聞けなかった。
そっと手を振ってくれるタカ丸さんを振り返りながら、私は砂浜を歩きだした。